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新旧多様な石垣群!
代右衛門丸の石垣は、城内最古のものから最新のものまで、バリエーションに富んでいます。
図1.江戸時代に描かれた代右衛門丸の絵図
(青矢印範囲を代右衛門丸の石垣としています。)
石垣は角となる隅角部に良く特徴がでます。
(1)は、ほとんど加工されていない石材をもちいた『野面(のづら)積み』と呼ばれるもので角の稜線もきれいに通っていません。
(2)は鑿(のみ)で丁寧に加工された石材を用いた角となり『切込(きりこみ)ハギ』と呼ばれる部類に入ります。なおこの角は、城内では最も高い15mになります。
(1)と(2)は連続する面を構成している石垣ですが、築かれた年代は、(1)は17世紀の初め頃、(2)は嘉永4年(1851)頃の修理と考えています。このように、同じ郭(くるわ)でも一様に石垣の年代を決めることは難しい場合があります。
(3)の石垣は、(1)、(2)の石垣と一連のものです。(2)ほどの丁寧さはありませんが玄翁(げんのう)で整えられた石材が使われ、『打込(うちこみ)ハギ』と呼ばれるものとなります。間詰石はほとんど使われず、築石を隙間なく組み合わせて積み上げています。
写真1:代右衛門丸石垣その(1)、(2)、(3)
高さ:(1)約6m (2)約15m (3)約9~15m
勾配:(1)約3分勾配(約73度) (2)約5分勾配(約64度) (3)約5分勾配(約64度)
石材:砂岩 ◎宇和島ではよく採れる石です
写真2:(3)の石垣の基底部分の発掘調査
(1)の時期と考えられる古い石垣を残して、新しい石垣を積み上げていました。
(4)の石垣の石材は、(3)と同様玄翁で整えられていますが、間詰石が詰められています。年代としては18世紀代と考えています。
(5)は、(1)のように未加工の石材を多用していますが、1mを超える巨石をデザイン的にちりばめて、石材をより大きく見せるため勾配は直角に近い角度となります。巨石は、鏡石(かがみいし)・大平石(おおひらいし)と呼ばれることもあります。このような石垣は、御殿などへ通じる道沿いに築かれます。ところが、この先には櫓(煙硝矢倉※1)しかなく、道も行き止まりとなります。藤堂高虎の創建時期となる慶長6年(1601)頃のものと考えていますが、その頃は絵図にはない重要な施設やそこに続く道があったのかもしれません。
※1 江戸時代では「櫓」と表記されることが一般的で、「矢倉」は戦国時代など古い時代に使われます。宇和島伊達家の資料では城内の櫓については、「矢倉」という字が使われているため、櫓の固有名称を指す場合は「矢倉」を使用しています。
写真3:代右衛門丸石垣その(4)、(5)
高さ:(4)0.8~5m (5)3.5~5m
勾配:1分~2分勾配(約78~84度)
石材:砂岩、頁岩 ◎宇和島ではよく採れる石です