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国指定 伊予遍路道

印刷用ページを表示する 記事ID:0029363 更新日:2018年11月7日更新

国指定記念物(史跡)

伊予遍路道 (稲荷神社境内及び龍光寺境内 仏木寺道)遍路道俯瞰写真

  • 所在地 三間町戸雁・成家
  • 所有者 宇和島市
  • 指定日 平成二八年一〇月三日
    追加指定日 平成二九年一〇月一三日

 遍路道は空海(諡号(しごう)は弘法大師)ゆかりの寺社を巡る全長一、四〇〇kmにも及ぶ霊場巡拝の道で弘法大師の足跡を追体験する四国を一周する信仰の道である。伊予遍路道は延長五〇〇km以上あり、四国のなかで距離が一番長い。当市の遍路道のち、稲荷神社及び四国八十八ケ所霊場第四一番札所龍光寺の参道・境内・御旅所及び、龍光寺西側の遍路道(仏木寺道)が史跡に指定されている。

指定範囲 龍光寺は愛媛県宇和島市三間町戸雁に所在する真言宗御室派の寺院で、江戸時代までの神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。明治時代初期の神仏分離までは稲荷社が札所であった。

 龍光寺のある三間盆地の中心部は標高約一五〇mで、札所は盆地西部の中世山城「金山城跡」のある山塊の南東山腹にある。順打ちをする遍路は、伊予国で最初の札所である第四〇番観自在寺(愛媛県愛南町御荘平城)から宇和海沿いの灘道、篠山権現に参る篠山道、それらの中間を通る中道のいずれかを経て、宇和島城下を通って北に進んで三間盆地に入った。
龍光寺の歴史の初現は僧澄禅(ちょうぜん)(一六一三~一六八〇)が貞応二(一六五三)年に著した遍路紀行文『四国遍路日記』で、「夫より猶戌亥の方へ往て坂を越て稲荷の社に至る。観自在寺より是迄まで十里なり。稲荷ノ社本地十一面観音、田中ニ在り小キ社ナリ。」とあり、江戸時代前期には稲荷社として成立していたことがわかっている。
 稲荷神社本殿等の建築様式から一八世紀後半の建築とされ、隣接する旧観音堂(現廣田神社)の建物も、その建築様式から一八世紀初頭とされており、江戸時代中期には稲荷社としての今日に続く景名所図会観が成立していた。なお、江戸時代前期にはすでに、「立光寺(りゅうこうじ)」という名前で神宮寺としての龍光寺が成立していた。
 現在の龍光寺本堂は明治時代前期の建築と考えられており、神仏分離で旧観音堂から本尊を移転して設けられたものであろう。また、現在の大師堂も、一部に一八世紀後期の古材が見られるが、明治時代に再建されたもので、『四国遍礼名所図会』に記載されている大師堂が修築されたものと考えられる。境内地の大部分が龍光寺の所有となったものの、鳥居の近くにある大正五(一九一六)年造立の中務茂兵衛の道標には「四十一番い奈り」とあり、巡礼者にとっては近代に入っても稲荷社という認識が強く、稲荷神社・龍光寺は神仏分離を進めながらも、廃仏毀釈の影響を最小限に乗り切り、今日まで至ったものと考えられる。
 仏木寺道は龍光寺から第四二番札所仏木寺に至る道の一部で、龍光寺から西に位置する尾根を横断し、谷部を進む部分約四五〇mに旧状をとどめる。道沿いには、江戸後期の銘のある遍路墓や無銘の遍路墓もあり、四国遍路の歴史を短い区間歩いて知ることができ、古道の状態も良く残っていることから、文化財的価値の高い遍路道である。

境内鳥居参道より遍路道遍路墓終点

 

宇和島市HP「遍路道について」


文化的景観
埋蔵文化財