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市指定 八ツ鹿踊り

印刷用ページを表示する 記事ID:0002305 更新日:2022年10月21日更新

市指定無形民俗文化財

八ツ鹿踊りの画像1八ツ鹿踊り

  • 所在地 野川 宇和津彦神社
  • 所有者 八ツ鹿保存会
  • 指定日 昭和四九年二月一二日

 八ツ鹿踊りは、宇和島藩の総鎮守であった宇和津彦神社祭礼の練り物として、例年一〇月二九日の祭礼で演じられる。この踊りは、仙台藩主伊達政宗の長男、秀宗が慶長二〇(一六一五)年に宇和島藩に入部した後に始められたとされるもので、江戸時代以来の伝統を持っている民俗芸能である。

 ししまい・ししおどり・鹿の子・鹿おどり・デンデコなどと呼ばれて、市民に親しまれているが、その源流は仙台藩領の風流の一つ、「鹿踊り」である。

八ツ鹿踊りの画像2 鹿の面を頭につけ、その面から垂れた布で上半身を覆い、太鼓を前に抱えて打ちながら歌い踊る。この「太鼓踊り」系の鹿踊りは、宮城県各地に普及、さらに東北・新潟・関東まで分布し、踊り手の数・踊り方・歌詞は多様である。

 その中で、雄鹿たちが雌鹿を尋ね探して遂に発見して喜ぶ「めじしかくし」という踊りが、旧宇和島藩領となる南予一円には定着、分布している。

これらの鹿踊りは、宇和津彦神社から各地に伝播したとされるが、南予においても地域により鹿の頭数や踊り・歌詞に差異が認められる。鬼北町清水の五ツ鹿のような当時の村・浦地域に伝承されている写実的で原始的な力強い鹿踊りは古い形態とされ、それは仙台地方の権現型獅子頭の勇壮な踊りが南予の鹿踊りの原型と考えられているからである。

 しかしながら、宇和津彦神社の八ッ鹿踊りは、勇壮さとは真逆の優美さにおいて卓越しており、独自の変化が見てとれる。雄鹿七体、雌鹿一体の計八体で構成され、ある屋敷の庭に一頭の雌鹿が隠され、七頭の雄鹿が探し求め、やがて、すすきの陰に隠れている雌鹿を見つけ、お互いに喜び合うという筋立てで踊られる。小学生たち八名が、日本旋法の呂旋法(ド・レ・ミ・ソ・ラ・ド)で組立てられた、美しく哀愁を帯びた旋律で唄いながら踊る様は、ゆったりと大変優雅である。

 八ッ鹿踊りは、慶安二(一六四九)年頃はじまったとされるが、当時の鹿の頭数は定かではない。史料によれば、嘉永二(一八四九)年末広伊作筆の祭礼絵巻には五頭の鹿が描かれ、「安政四丁巳六月当町森田屋磯右衛門源吉昌作」の裏書のされている一八五七年の作の鹿頭も五頭であり、八頭の記録は大正一一(一九二二)年、昭和天皇が摂政の時、台覧に供した際の記録が初現となる。しかし、神社伝承や地元口伝には、江戸時代に八頭から五頭に減じ、明治になって八頭に戻したともある。現在も江戸時代の運行母体であった裡町一丁目が主体となり、八頭からなる踊りを保存伝承している。

 牛鬼が豪快勇壮、あくまでも、男性的な練り物であるのに対し、鹿踊りは、優美繊細、女性的な舞踊であって、両者とも、宇和島を中心とする南予一円の代表的な風流芸能である。牛鬼は炎熱の夏祭りにふさわしく、鹿踊りは、さわやかな秋祭りの風物として申し分ない。西日本では、南予地方に集中して鹿踊りはあるので、独特の芸能として大切にしなければならない。

歌詞

まわれ廻れ 水車
 遅く廻りて
 堰に止まるな 堰に止まるな
十三から これまで連れたる
 めん鹿をば
 こなたのお庭に
 隠しおかれた 隠しおかれた
なんぼ尋ねても 居らばこそ
 一本すすきの
 かげに居るもの かげに居るもの
風が霞を吹き払うて
 今こそ め鹿に
 逢うぞうれしや 逢うぞうれしや
奥熊が 奥の永途を越えかねて
 爪を揃えて
 はやすおもしろ はやすおもしろ


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