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市指定有形文化財(典籍)
大般若経 六〇〇巻
『大般若経』(唐・玄奘訳、全六〇〇巻)は平安・鎌倉時代に攘嬢災鎮護の守護経として諸国の村落で大切にされた。この妙徳寺経は室町時代前期の明徳四(一三九三)年から応永三○(一四二三)年にかけて伊予国宇和郡立間郷吉田(現宇和島市吉田町)の天台宗寺院であった大乗寺(現臨済宗)で書写された写経で、折本装、成立当初の写経をほぼ完存している。(補写経一〇帖を含む)帖末に記された奥書によれば、この写経は大乗寺住持継本房心源が願主・大旦那および勧進僧となって、大乗寺住僧らと共に近隣の寺院・豪族に呼びかけて分担書写した結縁勧進経である。当初は地方有力者の現世安穏あるいは亡者の追善供養を願って書写が行われたが、次第にこの『大般若経』に結縁した人々の息災延命・福寿増長を願う守護経として書写事業が進められ、応永三○年に完成した。
願主・勧進僧として事業を推進した継本房心源は奥書中に「橘朝臣継本」「薬師寺心源」とも称した人物で、恐らく鎌倉時代中期以前に宇和庄地頭であった橘公業の一族と思われ、本家が九州に移ったのちも南予の国人領主として活躍していたのであろう。しかし南北朝時代に西園寺氏が立間・来村に勢力を広げるに伴って領主としての地位を失い、半僧半俗の身分となって大乗寺を中心に写経事業を通じて勢力を維持していたと思われる。助力者の中に「清原守縁景清」、「薬師寺之朝臣種明」など国人層と思われる人名もあって注目される。
この『大般若経』は室町時代後期に宇和庄永長郷松葉(現西予市宇和町)大恵寺に移り、永禄四(一五六一)年に河原淵建法寺で地元豪族の逆修などの供養経に用いられたが、江戸時代に来村の来応寺所蔵となり、文化四(一八〇七)年に現有となった。各帖の表紙裏に文化四年七月にこの写経を来応寺から妙徳寺に寄進した旨の施主富永儀兵衛守清の寄進記がある。奥書中には俵津村河内の観音寺など写経事業に関係した諸寺院名も多くみえて、中世南予の在地豪族と仏教文化の在り方を伝えた写経として貴重である。
(注)結縁勧進経=志を同じくする人々に呼びかけてその協力によって完成した経典。
半僧半俗=頭を剃って出家の姿となるが、生活は俗人とあまり変わらない。中世の武士が好んだ生活スタイルで、多く入道・沙弥と称した。
逆修=往生極楽を願って死後に行う法会を生前に自身で行うこと