ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 新宇和島の自然と文化 > 市指定 仏木寺文書

本文

市指定 仏木寺文書

印刷用ページを表示する 記事ID:0002286 更新日:2015年7月1日更新

市指定有形文化財(書跡・典籍・古文書)

仏木寺記録の原本仏木寺文書

  • 所在地 三間町則
  • 所有者 仏木寺
  • 指定日 昭和三七年一一月三日

 仏木寺は、大同二(八〇七)年弘法大師開創の古刹で、四国霊場四二番の札所である。鎌倉・室町期は宇和郡西園寺氏、江戸期には伊達氏の庇護を受け、寺勢のよろしきを得た。

 所蔵されている文書は、年代・内容とも多岐にわたっていて、仏木寺の沿革や郷土史研究上、貴重な史料である。次の文書が文化財に指定されている。

一、仏木寺記録(典籍)
 仏木寺記録は、二巻にわたっている。

 その第一巻は、縦三五・五cm、横一〇〇cm、柄模様の和紙に墨書されている。

 内容は、大同二年の仏木寺開基の縁起、仁治元(一二四〇)年の大弐律師宣俊による再興。その後、建治二(一二七六)年までの堂宇造営修理等の沿革等が、三五六文字で記録されている。

 書体は、よく整い優雅である。日付け及び筆者名はない。ただし、箱書きに尊円親王御筆跡と見えている。

 尊円親王(一二九八~一三五六)は、伏見天皇の皇子、書家。尊円流と称せられ、後の御家流の源となった。

 その第二巻は、縦三三cm、横一四九・五cmの金粉入り和紙に墨書されている。

 内容は、第一巻の仏木寺記録の全文を模写。それに続いて「一、慶安元戊子年正月守護宇和島侍従伊達遠江守秀宗公大日堂修理」と加筆されている。

 ここまでが、萬治三(一六六〇)年宇和島地蔵院深良房盛の筆になるものである。

 それに続いて、延宝五(一六七七)年の伊達宗純公の大日堂の造立をはじめ、享保一三(一七二八)年、現本堂落成までの沿革が記されて第二巻を終わっている。筆者は不明である。

一、仏木寺記録付新添状事(古文書)
 元亀弐年辛未五月廿一日
両奉行 越智和泉守 澤近民部少輔

 住持 龍勢
 この新添状は、縦三九cm、横五一・五cmの和紙に一五七字で書かれている。
 その内容は、「仏木寺記録(第一巻の尊円親王御筆跡)が、戦乱のため一時寺外に持ち出されていたが、西園寺家来村殿宣久によって事なきを得た。今後は一切門外不出である。」と、両奉行からの示達である。

仏木寺記録付新添状事

一、民部坊之所可預知仏木寺院内堺事(古文書)
 寛元三年十月十三日
 権律師 宣俊
 これは、縦三三・三cm、横八五・五cmの和紙に仏木寺に与えられた境内地の四方境目が明記されている。
 東限船岫、南限小河堺、西限立間堺、北限横峰。

民部坊之所可預知仏木寺院内堺事

一、寄進状(古文書)
 元和二(一六一六)年及び寛永元(一六二四)年、金田壹岐守の寄進状二通である。
(一)、為御きしんと 七百田並田弐か所之分上置者也
 元和二年(一六一六)八月吉日
 金田壹岐守□□ (花押)
 仏木寺
(二)、毎年為御祈念之壹所堂之前高三石三斗三升三合之分、仏木寺ヘ上置申候 上巳
 寛永元年(一六二四)卯月三日
 金田壹岐守□□(判)
(注)上巳とは、じょうし、俗にじょうみ。桃の節句、三月三日。

寄進状の画像1寄進状の画像2

一、弘法大師自筆之華厳経第三一巻(書跡)
 この華厳経は、縦二五・四cm、横六・七cmの和紙に、次の五一字が見事に墨書されている。日付け、筆者名はない。ただし、箱書き(後世)には、「弘法大師御手跡」とある。
 於空生阿以故若甜苦来淡即知滅云何知 淡若従淡出甜即知亡復云何知甜苦二相 若従舌生必無甜淡及与若塵斯知味根本

弘法大師自筆之華厳経


文化的景観
埋蔵文化財