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市指定有形文化財(典籍)
晦巌日記 二六冊
この日記は、金剛山大隆寺十五代の住職晦巌の日記である。
晦巌は寛政一〇(一七九八)年広小路の田中安兵衛の四男として生まれ、文化四(一八〇七)年正月二八日出家をして選仏寺に入り、寛堂和尚に師事した。時に年一〇歳。一八歳の時、筑前博多の聖福寺の仙涯に学び、後、鎌倉円覚寺の誠拙に教えを乞い、また清蔭、淡海にも教えを受けた。深く漢学に通じ、最も気概に富む勤王僧であった。
また、当時の時勢にも精通し、一時は妙心寺の住持となるも憂国の志は抑え難く、間もなく退居し、藩主の意を体として国事に尽くした。かつて藤本鉄石が宇和島に来て一年ばかり滞在した時も、晦巌の許に身を寄せていたほどであった。
この日記は、天保三(一八三二)年より、その没年明治五(一八七二)年七月二〇日に至る四〇年間の記録である。七五歳で遷化するまでの日記は三五冊にもなるものであったが、現存するのは文久元(一八六一)年までの二六冊である。
この幕末から明治に至る四〇年間は、宇和島にとっても新しい時代への重要な転換の時期を画するときであり、晦巌はまた藩主伊達宗紀、公武合体を推進した四賢候の一人である宗城にも信任あつく、全国各地に君命をおびて活動した。
日記は、その間の身辺日常の見聞、他藩の要人との人事応接の記事が主であるが、幕末多事であった宇和島藩の一面を知るために意義深く、重要なものである。
因みに現在「晦巌日記学習塾」によって解読が進められている。
(注)遷化=高僧の死