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市指定有形文化財(工芸品)
青銅鏡 二面
満願寺の出土鏡は、直径八cmと九・三cmの二面である。青銅製の小型の鏡で、ちなみに重さは、三二gと八七gの青銅鏡である。
この青銅鏡は、満願寺現一一世首藤修史住職の三世前、実門和尚が明治二八(一八九五)年、薬師堂の上の畑から掘り出したと伝えられている。鏡の他に鉾(現所在不明)も出土した。鉾は、諸刃の剣に長い柄を取りつけた武器で、鎌倉前期まで用いられた古代の武具である。
鏡が日本に最初に伝わったのは、弥生時代(紀元前三世紀から紀元三世紀ごろ)で漢の国の鏡である。古墳時代にも円形の青銅鏡が伝わった。当時は、実用よりも魔除けや祭器や権威の象徴、財宝等とされた。奈良時代には白銅の方形鏡、平安時代には意匠は単純になったが、鏡台が用いられた。鎌倉時代は鏡は円形のものばかりで、江戸時代になると柄をつけたものになり、江戸末期からは室内装飾用の鏡も作られるようになった。
この青銅鏡二面は、和鏡に属するもので、和鏡は平安時代前期に唐鏡の影響を受けて鋳造されはじめ、平安後期には完全に和風化した。これは藤原鏡とも呼ばれている。
和鏡らしく、この小さい鏡の背面には花鳥を題材として、自由でのびやかな文様がつけられている。大きい鏡には松林の浜辺で、波と戯れる浜千鳥の風物詩が鋳造されている。
また、背面の外は平縁で一段と高く縁をつくり、中央には鈕座があり、孔に紐を通してつまみ手を作り、手鏡として用いていたのであろう。
平成五年頃に、この青銅鏡二面を奈良国立博物館に持参し、鑑定を受けたことがある。それによると、小さい青銅鏡は平安時代前期(八〇〇~一〇〇〇年)、大きい青銅鏡は平安時代後期(一〇〇一~一二〇〇年)の製作であることが明らかになった。青銅鏡の埋納は天台宗系寺院に多くみられ、経塚の存在も予測されるところであり、さらに今後の詳細な調査・研究が期待されている。
小さい鏡
大きい鏡