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市指定有形文化財(彫刻)
木造毘沙門天立像 一躯
能寿寺は、開山年代不詳であるが、戦国の世、第一一代大森城主土居宗雲の末子鉄首座が住持した寺である。
延宝九(一六八一)年の吉田古記に「此寺古は伽藍らんたりし由」と見えている。
毘沙門天は、四天王の随一、多聞天のことである。四天王とは、須弥山に住む帝釈天の輩下で、須弥山の四方を守る神となった。東を持国天・南を増長天・西を広目天・その北の門を守護するのが、この多聞天である。
その多聞天が、独尊で信仰されるとき、毘沙門天と呼ばれるのである。後には福徳高貴の神とされ、やがて七福神ともなった。毘沙門天の甲冑の腹部にある鬼面を海若といい、毘沙門天が本来水神であったことを示しているが、それが転じて、足もとに踏む邪鬼を天邪鬼と呼ぶようになった。
毘沙門天立像について、当時の三間町教育委員会は、次のように解説している。「黄色の身、忿怒の相で、七宝荘厳の甲冑を着け、左手に宝塔を捧げ、右手に宝棒をとり仏法の守護福徳を施す請願を有し、多くの夜叉(鬼神)羅刹(悪鬼)を統べるといわれる。その昔は他の多くの諸仏像と共に能寿寺にあったが、火災のためこの木像のみ遺ったものと思われる。」
昭和三七年八月、京都市立美術大学佐和隆研教授他の調査員により室町時代の作と鑑定されている。
この毘沙門天立像の身の丈九三cmが、一六・五cmの岩座の上に、左足を前に踏み出し、身をのけぞるように立ち、今は無き宝棒をもった右手を高く差し上げていかめしい。冑の下から足もとまではみ出た裳が風に翻って雄々しい。木沓を履いた仏像は、三間町内では珍しい。
その昔、災禍の中を生き残った毘沙門天だけに、その傷みもはげしく、黄金の箔も一部剥落。右腕の付け根も破損し、鉄材で支えられ痛々しい。