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市指定有形文化財(彫刻)
木造薬師如来坐像 一躯
この薬師如来坐像は、法花津与村井の三島神社に隣接する薬師堂内で、間口・奥行とも八一cm、高さ一五五cmの簡素な厨子に単独で祀られている。
高さ六二cmの坐像で、二五・五cmの頑丈な蓮華座に結跏趺坐し、輪光背を背負っている。顔は面長、下目使いの細い目は彫眼。白毫と肉髻珠との対比が美しい。
やわらかな丸味のある肩の線が左右に流れ落ち、開けひろげた分厚い胸部、ややつき出た腹部の肉厚が、この仏像の貫禄である。頭部と胴体とは一木で造り出し、両肩・両腕部ははぎ合わせている。
与願印の左手の掌にあるべき薬壺の欠損が惜しまれ、その柄穴が痛々しい。なお、左手指先が腐食し、左手首の接ぎ目が傷み、竹釘が見えている。
衲衣は偏袒右肩で、その裾の襞や衣文の彫は浅く単純で鷹揚である。しかし、翻波式手法には注目したい。その衲衣の透き間から両足の足裏うらが見えるから正しい結跏趺坐をしており、しかも吉祥坐である。両足の指の各関節のふくらみまでも彫り出している。元は素木き造りであったのだろうか。金箔の痕跡がみじんもない。
三島神社の棟札に「別当神宮寺」としるしたものがあり、この薬師堂は寺の名残りの堂と思われる。また『玉津郷土誌稿』(明治末期)に、「与村井金剛山神宮寺天台薬師」の記事がある。
西園寺氏と、後世いわゆる西園寺旗下の一五将と称される南予の諸将との関係は、西園寺公俊が正平年間(一三四六~一三六九)宇和に下向した(『高野山蔵院本予章記』)のを機として緊密化する。
法華津氏の法花津支配については、『大洲旧記』中「清谷寺諸旦那譲状」に、法華津殿一族の名が見られるから、この文書の日付、暦応三(一三四〇)年には、すでに法花津を支配していたことが知られる。
法華津氏が、二百数十年に及ぶ法花津支配の歴史の中で、法花津沿岸の諸社寺の創建や開基にかかわったことは諸記録のしるすところである。
それらを考え合わせると、この薬師如来についても、法華津氏がかかわりをもっていたものと想像される。
昭和四九年八月に来町された当時神戸大学教授の毛利久博士は、寄木造りで白毫に玉が用いられている点を指摘され、室町期特有の作風が見られると述べられている。