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県指定 富田知信画像・富田信高画像

印刷用ページを表示する 記事ID:0002237 更新日:2015年7月1日更新

県指定有形文化財(絵画)

富田知信画像 一幅
富田信高画像 一幅

  • 所在地 宇和津町 伊達博物館に寄託
  • 所有者 金剛山大隆寺
  • 指定日 昭和二九年一一月二四日

 市街東部の山の手にある伊達家の菩提寺、金剛山大隆寺に、戦国時代から安土桃山時代にかけて世に在った武将父子の画像がある。

 仏門に入った法体姿の老人の方は、父の富田左近将監知信のもの。豊臣秀吉の側近で、渉外係担当といった役で、対織田信雄や対徳川家康との和平交渉に働き、のち伊勢国安濃津(いまの三重県津市)五万石の城主となり、慶長四(一五九九)年に亡くなった。伊達家所蔵の豊臣秀吉画像を制作した人である。知信の画像には慶長四年一一月の春屋宗園和尚(大徳寺住職、大宝円鑑国師の号を贈られた人)の讃がある。

 衣冠姿の壮年の人は、知信の後を嗣いだ子の信高である。父の知信は秀吉の側近とはいっても、石田三成などの官僚派とは性格が合わなかったらしく、また信高も純然たる武将型の人物だったので、父の死の翌年に起こった関ヶ原の戦では、徳川家康の東軍に付いて、伊勢の津城で石田三成派の西軍の包囲を受けて奮戦した。慶長一三(一六〇八)年徳川幕府より伊予板島(いまの宇和島)一〇万石を賜わり入城した。

 彼はこの地に父知信(法名正眼院)の菩提を弔うため禅寺を建立する。これがいまの金剛山大隆寺である。また彼は海運の便を図って、三崎半島塩成なしの堀切工事に着手したが、途中で彼が改易になったため工事は未完成で終わった。

 彼が慶長一八(一六一三)年に徳川幕府から領地没収、奥州岩城(いまの福島県)に流されるという処分を受けた。これは妻の兄に当たる津和野城主坂崎出羽守直盛との諍いのためであった。直盛にも信高の妻にも甥に当たる左門という者が、人を討って直盛のもとを離れて、富田家に庇護を求めた。

 坂崎出羽守は、のちの大坂夏の陣で豊臣秀頼の妻千姫を助けた人である。山本有三の戯曲「坂崎出羽守」の主人公で一徹者、信高とは義理の兄弟の間柄とはいっても双方譲らず、遂に徳川家康の裁断で、富田信高の非と決まり処分を受けた。こうして信高は寛永一〇(一六三三)年二月、奥州の配所で淋しく亡くなった。

 ところが、富田信高の側近で、梶田一正という武士があった。浪人生活ののち縁があって伊達家に召し抱えられる。再び大名の家臣として生活に困らなくなったにつけても想い出されるのは、悲運のうちに世を去った旧主、富田信高のこと。画工に命じて彼の面影を伝えた肖像画を描かせ、当時名僧として名高い雪窓和尚(大分県多福寺の二世)に讃を乞い、寺に納めて旧主の菩提を弔ったのは寛永一四(一六三七)年八月のことであった。

 古い二幅の画像であるが、いにしえの歴史のおもかげを今に伝えている。

富田信高の画像
富田信高画像

富田知信の画像
富田知信画像


文化的景観
埋蔵文化財