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国指定重要文化財(絵画)
絹本著色豊臣秀吉像 一幅
尾張国(愛知県)中村の百姓の小倅から、国内統一の大事業を行い、天下の実権を握る関白・太政大臣にまで立身出世した豊臣秀吉の生涯と人間像は、いつの世でも庶民の英雄として親しまれてきた。
『絵本太閤記』以来、数々の伝記物語や演劇が、人気を呼んだものであろう。
この豊臣秀吉は、一体どんな容貌をした人だったろうか。アダ名を猿と称されたように、猿に似ていたことは一般に信じられている。確かな史料で見ても、細川家に伝わる織田信長の書状に、「猿が帰ってきて…」と記しているし、毛利の家臣玉木吉保が、姫路城を出陣しようとした秀吉を一見したときの回顧録に「赤ひげをはやして、猿まなこをぎょろつかせて、ひらりと馬にまたがって出かけていった。」と記しているから、当時、秀吉の容貌、ことに眼が猿に似ていたのは定説になっていたのであろう。また一方、主君の信長が秀吉の妻(ねね・北政所)に与えた書状には「お前さま程の細君は、あの”はげねずみ”では二度と求めることは出来まいから、お前さまも奥方らしく大様に構えて、軽々しく焼き餅など焼かぬように…」と記し”はげねずみ”と形容している。
秀吉の肖像画で重要文化財となっているものは高台寺・西教寺・逸翁美術館・畠山記念館所蔵のものがあるが、宇和島伊達家所蔵のそれは、中でも最も大幅で(縦一三一.二cm・横一〇三.九cm)、荘厳を極めたものである。秀吉が慶長三(一五九八)年八月、六二歳で亡くなったのち、彼の側近であった富田左近将監知信が、旧主を偲んで描かせたもので、画家は狩野光信、慶長四年二月僧録職(五山十刹を統轄する僧録)の西笑承兌和尚の賛文がある。知信の嗣子、富田信高によって建立された金剛山正眼院(いまの大隆寺)に伝わって来たものだが、幕末に伊達家に献上された。
小柄であった秀吉は、とくに大きな装束を着たり、付けひげをして威厳を示す工夫をしたというが、伊達家所蔵の画像を見ていると、威容を現すのを主題とした肖像画ではあるが、彼の政治家としての性格や猿とか”はげねずみ”とか称せられた容貌もうかがわれて興味深いものがある。
なお、本像は令和元年六月から令和三年三月の約二カ年をかけて絵具の剥落や絹地の破損などの保存修理が行われ、その過程で彩色方法や大正一一年の修理記録が明らかとなった。※詳細については以下パンフレット参照