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国指定 天赦園

印刷用ページを表示する 記事ID:0002353 更新日:2015年7月1日更新

国指定記念物(名勝)

園の東南部枯川口より西方大池を望む天赦園

  • 所在地 天赦公園
  • 所有者 伊達家
  • 指定日 昭和四三年五月二〇日

 天赦園一帯は、宇和島城の西南を囲んだ海であったが、寛文一二(一六七二)年二代藩主伊達宗利がここを埋め立てて造成した浜御殿の一部で、周囲六〇七m、面積一六三〇三平方メートルある。

 第七代藩主宗紀(春山と号す)は、この浜御殿の南寄りの一角に隠居所を造るため、文久二(一八六二)年に工事を起こし、同一二月に潜淵館・明心楼・春雨亭・月見亭の建築が完成したので、宗紀はここに居を移して、南御殿といった。

浄土へ渡る白藤太鼓橋 翌文久三(一八六三)年二月、時の勘定与力五郎左衛門に命じて庭造りに着工し、慶応二(一八六六)年に完成したので天赦園と名付けた。この名は、初代藩主秀宗の父である仙台の伊達政宗が作った詩からとったものである。

 馬上少年過 馬上に少年過ぎ、
 世平白髪多 世平かにして白髪多し。
 残○天赦 残○は天の赦す所、
 不楽是如何 楽しまずして是れを如何せん。

 潜淵館は、宗紀が八代宗城、九代宗徳の背後にあって、真の実力者としてしばしば家臣と会して、幕末維新の国事を論じた所で、明心楼の附属建物として建てられた居宅である。宗紀はここで明治二二(一八八九)年一一月百歳の天寿を全うした。

春山候が書道を愛し百歳の天寿を全うした春雨亭 文部省は「徳川末期における大名庭池水回遊式庭園として意匠技法に見るべき物がある」との理由で、周囲四八二m、面積一二七七八・〇九平方メートルの池庭を名勝に指定し、「庭園の地割の主体は広い池であって岬、入江、曲浦等屈曲の多い汀線で囲まれ、池心に一小島を置き、池辺の要所の石組には多くの和泉砂岩の海石を用いてある。園の周囲はクロマツ・クスノキ・ウバメガシ等の常緑樹によって外部を遮蔽し、園内には各種の温帯性樹木が多数植栽されているが、特にタケとフジの種類が多く、独特の風致を作り出している」と指定説明されている。しかし現在では植生の更新が進み、マツや温帯性の樹木に代わってエノキ・クスノキが欝蒼と空を覆い、中層はヤブツバキ・カシ類・タケ類・フジ類となっている。(竹は伊達家の家紋で、竹に雀であり、藤は先祖が藤原氏であることに由来している。)

 これらの樹林で大半が囲まれた大池は、園面積の三分の一を占め、美しい池庭護岸石組のもとに、そこに浮かぶ蓬莱島・東屋岬・交差した出島と顕著な陰陽石・白藤太鼓橋を透す景観は何れの眺めからも絶景である。

 また池の西側対岸にはソテツのある山を設け、一枚の蓬莱石が配されており、東屋岬から対岸へは大きい白藤太鼓橋が架かり神仙・浄土の境地となっている。これより少し北に子持ちの三尊石組があり、さらに園北側に鬼門を飾る守護三尊石組がある。

 東側芝生は、もと明心楼(明治二九年取り除く)があり庭を眺める拠点であったと思われる所であるが、今は広々としてマツを数本残すのみとなっている。芝生南部にはこの借景として鬼が城山系を見、その源を想定した幽雅な枯川と、下流は大河となり大海に注ぐという雄大な枯流れを見せる独特の枯山水となっている。川畔には選りすぐられた大きい拝石・子持石・獅子石・臥牛石・起牛石や灯籠が配され見るものが多い。

 北側芝生には潜淵館と近くの池辺に春雨亭(書屋)があり、書院造系庭園の風景を見せている。また花菖蒲園の近くには月見亭がある。

 大正一一(一九二二)年一一月二五日に、昭和天皇が皇太子の時、当市においでになり、ここを御休憩所にされたことがある。さらに昭和四一(一九六六)年には、昭和天皇・皇后両陛下がおいでになり、この庭園を散策され、ここにお泊まりになった。


文化的景観
埋蔵文化財