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市指定記念物(史跡)
吉田藩刑場跡
かつての三間街道の入口がある大工町から七曲りを過ぎて十本松方面に向かうと、立間郷蔵からの道と出会う。そこから郷蔵竜王と高土日平の境界沿いに尾根道を上がっていくと、刑場のあった場所にたどり着く。藩政時代にここに刑場が設けられていた。
犯罪者の処罰された記事は、今までの調査の段階では少ない。文化年間(一八〇四~一八一七)にお松という悪女がここで磔刑になり、その模様が伝説として地元に伝わっている。
明治三(一八七〇)年旧藩時代の悪政改革を叫んで領内の農民七〇〇人余が結集した事件となった三間騒動が起きる。明治四年、吉田藩庁による処分で一揆の首謀者二名(嘉之寸計・藤吾)がこの地で処刑される。『吉田糾弾局日記』によると、三日の工事で新しく施設を整え、昼九ツ時(一二時頃)前に彼ら二人を絞首刑にしたとある。
その三か月後には廃藩置県となり、新設の刑場はその後使用された様子はない。現在周辺はみかん畑となっている。
なお、藩の処刑場は、「針ヶ谷」にもあった。『叶高月家旧記録』と『柴田家文書』に、吉田騒動の頭取武左衛門(嘉兵衛)が、一揆から二年後の寛政七(一七九五)年三月二三日に処刑されたとある。又、『柴田家文書』には、針ヶ谷において打首と、場所が明示されている。
時代は後のことであるが、文久二(一八六二)年針ヶ谷に溜牢を新たに造ったことが『奥山甚太夫覚書』に記されている。
従って、針ヶ谷(国道五六号から知永へ入る道路の山側JR線のあたり)に処刑場や牢屋があったことは事実であろうが、針ヶ谷のどの場所にそれら施設があったかは特定できていない。