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市指定記念物(史跡)
西蔵寺跡
『吉田古記』によると、西蔵寺西蔵坊は中世の頃立間郷の中心寺院として栄えた大光寺十二坊の一寺院であり、現在の吉田町立間雪森地区に存在した。
『宇和誌材・立間村ホノギ調』(伊予史談会編)には、雪森とともに西蔵寺・大師堂の名があり、京塚(経塚か)・丸山など古墳の所在につながる地名も遺されている。
『文化十四年丑年より卯年迄三ヶ年之間御定免相極畑方下札帳、立間長谷』(文化一四年は一八一七年・立間公民館蔵)をはじめ『神社仏閣御改帳』『野取図』(同前)には、「才蔵寺」ともあるが、これが西蔵寺に由来することは疑う余地がない。
大光寺十二坊中、現存するものは医王寺があるのみであり、その他としては、普門寺・西蔵坊を除き、遺跡としてこれを確定できるものはないようである。
西蔵寺は、雪森地区の中央部に位置する小丘(この辺りを西蔵寺と呼ぶ)を中心として建立されていたものと思われるが、時代によって多少の移動はあったかもしれない。
現在は丘上に地蔵堂(間口三間 五・四m、奥行三・五間 六・三m)があり、
地蔵菩薩立像 石仏 像高七三cm(台座共)
弘法大師坐像 石仏 像高五〇cm(台座共)
(台座に「延享四卯七月廿一日」の銘がある・延享四年は一七四七年)が一体ずつと、その他の諸仏が祀られている。
地蔵堂近くの畑地内には五輪塔残欠がある。
なお、宝形造の地蔵堂の宝珠を載せる瓦製の露盤に「水山」の文字が刻まれている。雪森地区を流れる長谷川に架かる橋に「水山橋」の名が付されていることからも西蔵寺の伝承が裏付けられるであろう。
引地雪森自治会では、往昔より今日に至るまで、正月一六日と八月一六日との年二回、地蔵堂で地蔵講のお籠りをし、百万遍念仏供養を行なっているほか、一一月二〇日にはお衣替えをするなど、寺跡が信仰の形で伝承されてきていることは貴重である。