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市指定 八烈士の供養碑

印刷用ページを表示する 記事ID:0002347 更新日:2015年7月1日更新

市指定記念物(史跡)

八烈士の供養碑八烈士の供養碑

  • 所在地 吉田町大工町
  • 所有者 個人
  • 指定日 昭和五四年三月二六日

 山田騒動は、吉田藩初代藩主伊達宗純が登用した山田仲左衛門の専横に対する、伊達家旧来の老臣たちの反感、すなわち新旧の勢力争い、譜代の直臣対出頭人の抗争ともみなされる事件である。

 山田仲左衛門はもと土佐の浪人で、文武両道に達しているうえ、医術のわきまえも深く、文庵と称し深田村で医者を開業していたといわれる。延宝二(一六七四)年、たまたま宗純の難病の治療にあたってその功績をみとめられ、御殿医として召抱えられることになった。

 その後も、武芸の上で面目をほどこすことなどもあって、しだいに禄高を加増され、ついで剣術指南役を命ぜられるなど昇進をかさね、ついには筆頭家老ともなり、やがては藩政をも専断するにいたったという。

 彼が経世の才にすぐれた有能の士であったことはたしかであろうが、高禄の重臣を淘汰して藩政の建て直しをはかるという革新的な人員整理(延宝の改革)が断行されたそのさなかに、自ら五百石を甘受して、仕官後六年たらずで筆頭家老に登りつめたのであった。そういう背景を考えると、旧臣の間において羨望と反感がつのっていったのもうなずけるし、騒動の素因が充分に醸成されていたのは想像にかたくない。

供養碑 仲左衛門に御家乗取りの野心ありとして決起したのが、御小人組足軽のものたちであった。天和三(一六八三)年一一月二八日、これら決死の御小人たちは、仲左衛門出仕の途中を御殿前の松の木陰で待ち合わせ、これを殺害してその野望を未然に防がんとしたが、同志のうちの一人が内通したため、首謀者の長兵衛をはじめ八人のものたちはその場で逮捕せられ、大工町奥の普門院で切腹を命ぜられた。

 仲左衛門は事件のあと、宗純の袖にすがって難を江戸に避けたが、貞享三(一六八六)年六月、仙台藩の江戸芝浜藩邸において月番家老柴田内蔵の審問をうけ、萩野七郎兵衛、久徳平左衛門、尾田喜兵衛などと対決の結果、その非を追求されて、ついに仙台藩に終身幽閉の身となった。

 八人の遺体は普門院に埋められたが、事件後六十数年を経た寛延三(一七五〇)年墓碑が建てられ、廟所がもうけられた。碑には、長兵衛、徳兵衛、覚右衛門、四右衛門、五右衛門、三助、四平、久助と八人の名とその戒名が刻まれている。

 世人はこれを八人様と呼び、いまなお毎年一二月四日に供養をし香華を絶やすことはない。

(注)専横=わがままで横暴なふるまい態度


文化的景観
埋蔵文化財