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市指定記念物(史跡)
犬尾城跡
吉田湾の奥深く船が内港をめざして進むと、まず目に入ってくるのがピラミッド型に切り立つ犬尾山(犬日ともいう)である。標高一三〇m、石城より、一〇mばかり高い。
山上に立つと、吉田の町並みを一望におさめることができ、北に目を転ずるとすぐそこに石城がある。中世の犬尾の山裾は潮に洗われ、石城の周辺もほとんどが葭田だったと考えられる。
法華津氏は、はじめこの犬尾山に城塞をおき、これを本城としたと伝えられるが、その年代については不詳である。ともかく西園寺氏の出城として築かれたこの城は、補給地としての立間をひかえ、地の利もまた充分であったし、難攻不落とうたわれた。
その後あたらしく法華津の地に本城をかまえ、七城の構築が完成すると法華津氏はこれに移り、犬尾・石城はその支城としてのこされた。
しかし、一三〇〇年代における犬尾城が、立間郷の中心地立間の前門を守る重要な拠点であったことは疑いもなく、ついで宇和西園寺氏の前衛第一線となることも、その地理的な位置、戦略的な地形からして当然であったと思われる。
のち豊後大友氏の侵攻に対し、石城・犬尾に土居氏を、法華津本城に法華津氏をと、防衛拠点が二分されたことは、あくまでも対大友戦略の展開上必要な措置であり、依然として犬尾城は海辺防備の最前線にあった。
天文一五(一五四六)年、西園寺氏の再三にわたる懇請をうけ、一族郎党をひきいて石城に入城した土居清宗(宗雲)は、大友氏の侵攻がはじまるや、その八郎宗実・九郎宗信に八十騎をあたえて犬尾城を守らせた。
大友の来攻は、永禄元(一五五八)年を境にして激しさを加え、土居氏また善戦してよく敵を撃退したが、同三年の大攻勢をうけて九月二二日、ついに犬尾城は陥落する。要衝犬尾城の陥落が石城の落城(一〇月六日)を早めたことはいうまでもないが、いずれにもせよ、土居氏入城以来一四年間にわたり、つねにその前衛的役割を果たした犬尾城は、戦国時代における郷土戦史上の輝かしい存在となっている。
現在は山頂に休憩所が設けられ、道路も整備されて車で行くことができる。