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市指定 僧日述謫居跡

印刷用ページを表示する 記事ID:0002345 更新日:2019年3月11日更新

市指定記念物(史跡)

東小路にある謫居跡僧日述謫居跡

  • 所在地 吉田町東小路
  • 所有者 宇和島市
  • 指定日 昭和五三年七月一三日

 僧日述は下総国平賀の日蓮宗本土寺の住職であったが、同門の日樹、日講などと共に不受不施の宗義を堅持してゆずらず、新義弾圧をもってのぞむ幕府と対論した。

 不受不施、すなわち同宗の信者でないものより施しを受けず、これに施さずということは、もともと日蓮宗の通規であったが、布教のため、いくらか現実と妥協していた面もあった。

 文禄四(一五九五)年京都妙覚寺の日奥が、ふたたびこれを唱道してこの派の祖となった。

 たまたま二代将軍徳川秀忠の夫人浅井氏の葬儀にあたって、布施を拒絶したことから問題は拡大し、日蓮宗総本山の身延山久遠寺の出訴などもあって紛擾したのち、幕府は妙覚寺の寺領返還を命ずるにいたった。

 寺領は元来幕府の供養によるものとして、これの返上をもとめる幕府との間の対立は当然であったが、不受不施同派内にあっても論議があり、日述は、寺領は国主の仁恩に出でて供養にあらずとする恩田派の中心をなしていた。

 いくたびかの論争のあと、幕府はついにこの一派を制禁し、同派の僧侶をすべて流罪に処した。

 寛文五(一六六五)年日述は同派の日完と共に吉田藩にお預けとなり、翌六年一月吉田に到着した。日完はその後罪を犯して死罪となったが、日述は庵室に入った。吉田藩はこれに番人一人をつけて、六人扶持を供した。

 日述は閑居で風月を友とすること十有六年、延宝九(一六八一)年九月一日、七二歳で病没し、聖人山に葬られた。

 配流中の日述は、藩の陰ながらの厚意もあってか、ある程度の自由が与えられていたらしく、一乗寺にはたびたび参詣をし、同寺住職や檀徒の油屋などと、親しく交際したという。

 聖人山は、そのむかし、罪人を埋葬したところと伝えられ、無縁仏がいくつか残っている。日述は一乗寺への往復には、聖人山を越えていたが、途中かならず山上で一服し、さまざまの感懐にひたるのをつねとしていたといわれ、かねてよりここに葬られることをのぞんでいたと伝えられる。

 不受不施派は、明治九(一八七六)年再興の認可がおり、同一三年九月、下総国和気郡正妙院の住職日寂などが吉田を訪れ、日述の分骨を持ち帰った。昭和六年の二五〇年忌には、同派の管長、岡山県御津郡金川の妙覚寺住職日寿師ほか僧侶六名、信徒一七〇余名が、特船を仕立てて吉田港に入り、墓参礼拝して、墓前に石灯籠一対を寄進した。

(注)謫居=辺鄙の地に配流された人のすまい


文化的景観
埋蔵文化財