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市指定 法華津本城跡

印刷用ページを表示する 記事ID:0002343 更新日:2015年7月1日更新

市指定記念物(史跡)

法華津本城跡法華津本城跡

  • 所在地 吉田町法花津
  • 所有者 個人
  • 指定日 昭和四九年三月一日

 『歯長寺縁起』によると、元弘三(一三三三)年開田善覚は法勝寺長老の窮乏を救うために料足一千疋を施入しているが、そのとき善覚は、理玉、寂證などをはじめ僧俗数十人とともに、糧食、器物を満載した船を仕立てて法華津から京都へ向っている。また藩政時代になってから、貞享五(一六八八)年春、山奥の年貢米一万三千俵を法華津へ津出(輸送)することを命ぜられ、多田、山田、山奥、野村四組の百姓が大変困苦したということもあり(『上甲善兵衛聞書』)、藩政以前は立間郷内の重要な港として、また藩政後は宗藩宇和島によっても利用されていたことがわかる。

 法華津すなわち法華の港という地名は、歯長寺をはじめとし、当時この地方の大勢を占めていた天台宗寺院が、その根本教義としたところの法華経に由来するものと考えられ、また西園寺氏の被官としてこの地に下った清家氏は、その地名をとって法華津氏を称したものと思われる。

 法華津氏ははじめ犬尾城を本城としたとも伝えられるが、のち法華津に転じて海に面した標高四三・五mの独立丘陵に本城を構築、ついで周辺の要地に六か所の支城(新城、鍋蔵城、今城、高森城、福之森城、吉岡山城)を築いた。

 応永二八(一四二一)年すでに法華津在城との記録(『東円坊大般若経奥書』)があるので、本城の構築はこれを少しさかのぼる頃と思われる。

 法華津氏は、宝徳年間(一四四九―一四五一)宮の浦に城本寺を開基し、天正初年(一五七三)古来の名刹福厳寺を再建したほか、同六年法華津山王権現社(現在日吉神社)を建立するなど城下の社寺の整備に意をつくした。

 豊後大友氏の侵攻が最もはげしかった天文~永禄約四〇年の間に、相争うこと八十数回に及ぶといわれ、西園寺にとって第一線の防塞であった法華津の地は、大友の側からみてもまた、黒瀬攻略、宇和併呑の鍵をにぎる第一の要害だったのである。

 天正一五(一五八七)年秀吉の四国平定によって、宇和郡を戸田勝隆が預り、大洲の地蔵が岳に入城したが、これに先だち、土居清良、法華津秋延、御荘勧修寺の三人と西園寺の在城が許された。

 しかし、法華津秋延は一〇月下旬城を捨て筑紫に向かったが、高山沖で難船、死亡。これにより約二百余年にわたる法華津氏の歴史は、秋延の筑紫落ちをもってその幕を閉じたのである。

 法華津氏歴代中の雄将清家播磨守範延は、土居氏とともに豊後大友氏の来攻を防いで歴戦数十度、常勝を誇ったが、とくに海戦を得意としたその一族の活躍は、伊予水軍史上に輝かしくその名をとどめている。


文化的景観
埋蔵文化財