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市指定 伊達兵部一族の墓

印刷用ページを表示する 記事ID:0002342 更新日:2015年7月1日更新

市指定記念物(史跡)

伊達兵部一族の墓伊達兵部一族の墓

  • 所在地 吉田町寺家
  • 所有者 大乗寺
  • 指定日 昭和四九年三月一日

 人形浄瑠璃や歌舞伎の狂言「伽羅先代萩」の乳母政岡がわが子千松を犠牲にして幼君をまもる御殿の見せ場などで評判の伊達騒動とは、仙台の伊達綱宗逼塞ののち、その跡目をついだ当時二歳の亀千代丸(綱村)をめぐっての、その後見伊達兵部宗勝と重臣伊達安芸一派との政争である。

 寛文一一(一六七一)年三月二七日、大老酒井忠清邸でひらかれた審問の場で兵部の悪事があばかれる。原田甲斐が伊達安芸を切り殺した有名な刃傷の話はこのときのことである。

 事件は結局伊達兵部の後見役としての非が問われ、兵部は罪を得て土佐藩へお預けとなり、のち高知で生涯を終えたが、この時、その嫡子市正宗興は小倉藩へお預け、同時に宗興の正妻と三人の子供(伊達千之助六歳、千勝四歳、右近二歳)が一〇月に江戸を出発して吉田へ送られてくるのである。

 吉田藩が、これらの罪人をみずからの申し入れによって預ったことについては、宗興夫人が、ときの江戸幕府筆頭老中酒井忠清の正室と姉妹であったことなどから、いろいろと憶測するむきもあるが、伊達兵部が、吉田藩分知問題をはじめとして、吉田・宇和島両藩間の領地交換、境界論争などについて、つねに好意的な斡旋努力をしてくれたことに対する、吉田藩の報恩の情に発するところと解するのが妥当のようである。

 一行は吉田到着ののち、二百人扶持を給せられ一応お預けの身分ではあったが、手厚くあつかわれたらしいことは諸書の記述より察せられる。

 宗興の妻女は延宝九(一六八一)年御咎のとけぬまま病死するが、三人の子供たちは元禄三(一六九〇)年に罪を許された後も吉田にとどまり、それぞれ余生を送っている。この一事をもってしても、吉田藩がいかに兵部一族を厚遇したかということが想像できよう。その後、千之助が三〇歳、千勝が二七歳、末弟の右近は三八歳で生を終っている。

 四人の墓は大乗寺にあり、本堂の左、墓地への木戸を入った右側に、四基の墓石が肩を並べているが、御一門級の格式を備えて立派である。その背後に、仙台から一行を吉田へ送り届けた宰領の武藤新左衛門と、付人の小岩仙左衛門両者の永代塔があるのも印象的である。

 兵部側近の悪党第一人者とされている渡辺金兵衛は、四月に吉田藩にお預けとなったのであるが、江戸吉田藩邸内の長屋で、九月に自殺している。この金兵衛についで悪名の高い今村善太夫と横山弥次右衛門の両人は、同時に宇和島藩にお預けになったのであった。


文化的景観
埋蔵文化財