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市指定記念物(史跡)
吉田藩主伊達家墓所
吉田藩初代藩主宗純は、陣屋町造成と同時に領内諸社寺の修復をこころざしたが、まずその手はじめとして、万治元(一六五八)年その帰依するところの太易禅師を中興開山として玉鳳山大乗寺を再建した。これを吉田伊達家の菩提所とし、藩政の確立した延宝三(一六七五)年には同寺に対し領内寺院総支配の地位を与えた。
吉田伊達氏歴代の墓は、同寺山内の伊達家墓所にあったが、昭和三一年に改葬のうえ墓域が縮小整理された結果、由緒ある墓碑や二百有余を数えた石灯籠もそのほとんどが撤去されて、昔日の面影を完全に失ってしまった。
現在残されているもののうち、ほぼ旧態をとどめているのは、宮崎八郎兵衛など四名の殉死者の碑を背後にしたがえた宇和島初代藩主秀宗の供養碑と、その右にひかえる初代宗純の墓碑のみである。そのほかには、七代宗翰の墓碑と、改葬後年を経て返還された三代村豊および七代宗翰夫人の墓碑、つごう三基がある。
墓碑はいずれも五輪をかたどるもの、なかでも秀宗の供養碑には「孝子宗純建之」と刻んであり、三万石分知にいたる内情の一端をしのばせている。
なお、二代藩主宗保の墓碑が平成二一年四月に松山市内より返還された。
従って未だに返還されていないのは、三藩主(四・五・六代)の墓碑ということになる。