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市指定 石城跡

印刷用ページを表示する 記事ID:0002338 更新日:2015年7月1日更新

市指定記念物(史跡)

石城跡石城跡

  • 所在地 吉田町立間尻石城山
  • 所有者 個人
  • 指定日 昭和四九年三月一日

 わが国における戦国時代といえば、応仁の乱後、豊臣秀吉が天下を統一するまでの時代をいうが、字義のとおり、それは諸国に群雄割拠して互いに覇を競うといった血なまぐさい時代であり、下剋上という風潮が生じたのもその頃のことである。

 当時の南予には、宇和の西園寺氏を中心とする一勢力があり、土佐の長宗我部氏、豊後の大友氏と拮抗して、立間郷の風雲もまた急を告げるという情勢下にあった。

 天文一五(一五四六)年、西園寺氏の懇請をいれ法華津氏に代わって石城に入城した土居清宗(入道して宗雲と称す)とその一族は、以後十数年にわたり、海を越えて来攻する大友軍を防いで力闘した。入城以来弘治三(一五五七)年にいたる一一年間に合戦におよぶこと九七回と「石城戦記」に記されている。

 永禄元(一五五八)年六月二三日、大友勢は百余艘の軍船、一万五千の兵により宇和を攻略すべく押しよせてきた。七月六日に日振島に引取るまでに数回の合戦があったが、一三日には豊後へ引揚げた。

 その後大友勢は永禄三年まで五回襲来したが、悉く敗走した。

 永禄三年八月二九日、大友宗麟はみずから九州七か国の兵三万五千をひきいて海を渡ってきた。白浦から喜佐方を経て石城周辺に迫った豊後勢は、土居勢により手ひどい打撃をこうむった。畦の瀬で陣形を建て直した大友勢に対して、土居勢は知永の森で対陣した。

 九月に入り、戦略を転換した大友勢は板島、三間の諸城を陥し、津島、荻の森城を攻略、さらに御荘勧修寺の大森城も開城させて、再び石城にとってかえし、一〇日には完全に石城を包囲し、持久戦にでて、増援軍の到着を待ち、包囲網を厳重にした。

 二二日からの敵との合戦で、死傷者が増加、土居勢の戦力は日を追うごとに低下してきた。一〇月一日、落城を覚悟した宗雲は、清晴の三男清良に土居家再興の悲願を託し、土佐一条家の縁をたより、郎党を従わせて城を脱出させた。

 一〇月六日、勇戦激闘するもついに利あらず、豊後勢の包囲下にあって石城は陥落したが、この時、宗雲以下一族郎党、上?、下婢にいたるまで、合せて一二〇名が自刃したと言われている。幼い孫娘二人を左右にして、みずから火中に投じたという宗雲の夫人妙栄尼の哀話は、今日なお伝えられ、大工町姫宮様の姿を借りて生きている。

 土佐に雌伏すること三年、永禄五年七月に土居清良は三間大森城に帰り、永禄一〇年、土居似水(宗雲の弟)に石城を再築させ、在城させたが、その後のことを伝えるものはない。


文化的景観
埋蔵文化財