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市指定記念物(史跡)
普門寺跡
立間の八幡神社の裏山の地名を普門寺という。その平坦部、普門寺本堂の跡と推定される地点に経塚が一基ある。普門寺は大光寺一二坊中の一寺院である。
『歯長寺縁起』(重要文化財)の一章に「爰に元徳二(一三三〇)年庚午秋開田の善覚禅門立間郷所領たるに依て、入部の境節期せずして大光寺に参会、理玉和尚に相看の時、山中御隠居痛は敷存じ奉る、御許容あらば宇和分□に一寺を興行せんと云々、料足百石翌日請取られ仏殿料足と題せられ畢んぬ、寺家造営厳重の沙汰を致す、元徳二年十月十八日庫裡方丈造営し僧衆六人座せらる云々、本尊亦観音也云々」(原文漢文)とある。
また『吉田古記』に「立間村大光寺十二坊、西之坊、医王寺、上之坊、中之坊、西蔵坊、窪之坊、南坊、安楽坊、西光寺、普門寺、長福寺、宗勝寺已上十二箇寺」とある。
普門寺は、その位置ならびに”寺家”、入らず、”仁王門跡”、”鐘撞殿(鐘撞料田の意ともされている)”などの遺跡・地名・伝承よりする寺域の規模からみても、大光寺の中心的寺院であっただろうと想像されている。
普門寺はまた、その草創の時代を明らかにせず、その廃絶についても、永禄三(一五六〇)年石城の戦いで焼失したが、この記録もなく、幻の寺として今日にいたっている。
裾山の一つに”入らず”と称される霊場跡があり、五輪塔残欠のほか経石多数を埋伏している。経石は、西宇和地方に産出する緑泥片岩、いわゆる青石であるが、いずれも直径二〇~三〇cmの、ややまるみをおびた平石である。石面には法華経を墨書したものが多く、これによって、天台寺院として繁栄した往時をしのぶことができよう。
なお、”普門寺”を中心とする一帯は、立間郷発祥の地といわれ、”宮の脇”、”屋敷”付近では弥生土器片などが発掘されるほか、普門寺本堂跡の下方では、弥生後期における住居跡の存在を裏付けるところの、床面あるいは石器など生活用遺物が出土している。