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市指定記念物(史跡)
吉田藩陣屋跡
明暦三(一六五七)年七月、宇和島藩主伊達秀宗の五男宗純は、十万石のうちより三万石を分知され、吉田藩を創立、居館を吉田の地に定めた。
同四年一月、宗純は国安什太夫を総奉行として陣屋町の造成にとりくんだが、陣屋の建設は尾川孫左衛門の縄張りによって工事を開始、翌万治二(一六五九)年七月には早くも一部建築を完工して宇和島より移転した。
陣屋の主要部は、石城(御殿山)の南麓に位置している。東大手口には立間川を分流して国安川と名付け、これを導いて濠とし、陣屋の南側を東行する河内川を整備して内外苑を分かち、これと交差する長堀を造成して後背地を区分して陣屋を構築した。
大手口すなわち現在の御殿橋のあたりに太鼓橋(木造の反り橋)がかかり、その欄干は、寛文(一六六一~一六七二)年間に禁裡御造営をつとめた時の褒賞として許されたという唐銅の擬宝珠で飾られ、三万石伊達氏の偉容を示していた。
橋を渡ると枡形にしつらえた柵門があり、柵門の広場の北、濠端から山麓にかけて三棟の御蔵が鍵の手に建ち並び、南の端には御郡所、御代官所および御兵具蔵があり、御兵具番所がおかれていた。
陣屋の正門には橋を渡って約三〇m、俗に戸平門と呼ばれた瓦葺の長屋門があった。県道三七八号(喜佐方道路)の南側に大溝と石組が残っているが、これが長屋門礎石の位置を示す名残りである。門から御殿玄関御式台までは幅一間(約一・八m)の甃石が敷かれていた。
御殿すなわち陣屋は石城を背にして南面して建てられていた。大奥御殿をのぞくほかは、すべて茅葺の一見質素なものであったが、さすがに木口は精撰された見事なものであったという。御殿の台所の北側あたりの位置に井戸があり、当時より使われていたと推定されている。
御陣屋は、以後二百有余年、吉田伊達氏九代にわたる居館として領内外にその存在を誇示してきたが廃藩後数年ならずして本館が撤去されたのに引き続き、明治年中にはあらかたの建造物がその姿を消していった。
その後はもっぱら堀端の松並木が吉田陣屋跡を象徴していたが、今日はそれさえも見ることはできない。
現在陣屋の遺構としては、井戸と戸平門跡の石組みがあるのみで、その他内外苑ともに昔日の面影を止めているものはない。