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市指定 一条兼定の墓

印刷用ページを表示する 記事ID:0002333 更新日:2015年7月1日更新

市指定記念物(史跡)

一条兼定の墓一条兼定の墓

  • 所在地 戸島本浦 龍集寺
  • 所有者 戸島本浦地区
  • 指定日 昭和五二年一一月三日

 室町後期、応仁の乱で国内が乱れて、地方莊園からの収入に依存していた京都の公家たちは、くらしに困ることが多かった。

 一条家は五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)の一つで公家中の名門であった、前太政大臣・関白・一条兼良は奈良の寺院にたより、その長子の元関白・教房を応仁二(一四六八)年家領である土佐国幡多荘の中村に下向させた。

 教房のあと、房家-房冬-房基-兼定と相続いて中村に土着し、土佐一条氏となり、所領の回復・勢力の拡大につとめ、戦国領主としての地歩を固めた。兼定の盛時には、土佐幡多郡・高岡郡を支配するとともに伊予宇和郡の一部をもその支配下に置いた。

 それに対して一条氏の勢力と衝突したのが土佐中部に勃興して来た長宗我部元親である。元親は謀略により、また戦略により、しだいに兼定の支配地を侵略し、ついに天正二(一五七四)年、兼定を土佐国外に追放し、兼定は岳父に当たる豊後(大分県)の大友宗麟のもとに身を寄せることになった。土佐側の文献は兼定が暗君であったために身を亡ぼしたと記しているが、長宗我部側の史料によったものですべてを事実とはなし難い。

 豊後に赴いた兼定は天正三年、臼杵でキリシタン宣教師の洗礼を受け、洗礼名をドン・パウロと称した。同年、失地回復を志した兼定は南予の豪族、法華津氏・御荘氏らの支援により土佐に攻め入る(津島氏も別途、幡多郡北部に侵入する)。一時は幡多郡西部を制圧したかのように見えた兼定勢であったが、長宗我部の大軍との中村郊外、渡川の戦いに敗れ、伊予国へ敗走した。

 その後、兼定は法華津氏の庇護により、同氏支配下の戸島で敗残の身を過すことになる。その間、兼定の存在に不安を感じた元親は、かつての兼定の側近入江左近を刺客として兼定のもとに送るが、兼定は大傷を負いながらも一命を保った。土佐側の史料ではその時、兼定の死を伝えたものが多いが、キリシタン側の史料(フロイス『日本史』、『邪蘇会士日本通信』・『イエズス会日本通信』)によれば、不具病弱の身とはなったが、豊後から送られて来る国訳のキリスト教の書物によって慰められ、信仰に生きる余生を送り、天正一三(一五八五)年七月一日、四三歳で病死したという。

 彼の墓と伝えるものは、戸島本浦・龍集寺の境内にあって、形の崩れた宝篋印塔であるが、島の人々は「一条様」「宮様」と称して崇敬し、今なお兼定の墓前には香華が絶えず、毎年の命日には盛大な法要が行われている。四二五回忌に当たる平成二一年には、高知・愛媛の西南四国歴史文化研究会のメンバーも多数法要に参列した。


文化的景観
埋蔵文化財