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市指定 前原巧山の墓

印刷用ページを表示する掲載日:2015年7月1日更新

市指定記念物(史跡)

前原巧山の墓前原巧山の墓

  • 所在地 丸穂
  • 所有者 西江寺
  • 指定日 昭和四九年二月一二日

 前原巧山(嘉蔵、のち喜市)は、文化九(一八一二)年八幡浜で生まれ、天保九(一八三八)年宇和島の本町に移住した。父の死後、家業である廻船問屋が破産し、その後種々の職業に従事した。大坂で目貫師に師事したり、吉田で刻み煙草をつくったり、宇和島では仏具・具足・提灯屋などいろいろな仕事を転々とした。いわゆる器用貧乏な職人生活だったが、宇田川榕庵の『舎密開宗』を読んでいたことは注目に価する。

 安政元(一八五四)年、巧山は本町の豪商清家市郎左衛門から、伊達宗城の着想になる西洋式火輪船の研究を依頼された。巧山は網曳用の舳艫からヒントを得て外輪車をつくり、これが藩主宗城の目にとまって、二人扶持五俵の御船手出勤の身分となった。長崎へ三度も出張して「バッテーラ」(カッター)や「マグネット」の構造を学び、蒸気機関や船体構造について意欲的に研究した。

 安政三(一八五六)年から翌年にかけて、鋳物の蒸気機関をつくったが実験に失敗した。さんざんの不評をかい、「おつぶし方」の異名をとった。そこで、当時蒸気船を建造中であった薩摩藩に研究に行った。ついに、安政六(一八五九)年二月、蒸気船の試運転に成功した。小型で機関も弱い船であったが、薩摩藩についで日本人の手に成る二番目の蒸気船であった。巧山はこの功を賞され、三人扶持九俵・譜代の身分となった。

前原巧山の手による天保録マシーネ図(伊達文化保存会蔵) 宇和島藩は、慶応二(一八六六)年、代金二万六千両で船齢三〇年の外国船(天保録と命名)を買い、長崎での貿易に就航させようとした。開港後の貿易がさかんになる中で、明治に入り、巧山の船も改造された。

 巧山は造船のほか、木綿織機、ミシン、砲台や小銃、雷管、藍玉、パンの研究にも異才を示した。明治に入り、野川で悠々自適の生活を送り、同二五(一八九二)年、八一歳で死去した。墓は西江寺にある。