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市指定記念物(史跡)
山家公頼の墓
宇和島藩祖伊達秀宗が、宇和郡一〇万石に封ぜられ、宇和島(当時板島)に入ったのは元和元(一六一五)年のことであった。秀宗の父伊達政宗は、家臣の中より力量手腕の秀でた山家清兵衛公頼を総奉行として藩政を委託した。公頼は藩の財政の立て直し、民力の涵養に努めること五年間、大いにその治績を挙げたのであった。
しかし、元和五年幕府の命による大坂城石垣修築工事問題等を契機として、公頼排斥の空気がたかまり、元和六(一六二〇)年六月三〇日の夜、秀宗の意をうけた武士たちが公頼の邸を襲い、公頼をはじめ、一九歳になる二男治部、一四歳の三男丹治は刃に倒れ、九歳になる四男の美濃は井戸に投げこまれ、命を落としたと伝えられている。山家邸は今の和霊神社(丸之内)の地であった。
公頼に日頃から好意を寄せていた人達によって、遺骸はひそかに金剛山西の谷に葬られた。後、藩主秀宗も冤罪であったことを認め、また領内の庶民も公頼の高徳を慕い、香華の煙が絶えなかったという。
現在、おたまや様(和霊廟)として、毎年七月二九日の祭日には、多くの参詣人でにぎわっている。