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市指定記念物(史跡)
児島惟謙の生誕地
我が国法曹界の偉人児島惟謙は、藩老宍戸家の家臣金子惟彬の二男で、天保八(一八三七)年二月一日堀端通りの宍戸屋敷内の長屋で生まれた。現在、宇和島税務署のある所がその宍戸邸跡である。
惟謙の幼少時の境遇は、恵まれたものではなかった。生後五か月で母直子(那保子)と生別、その後里子に出されたり、野村の緒方家や岩松の小西家の使用人になったりして、つぶさに辛酸をなめた。しかし惟謙は、よくその逆境にたえて文武の修行にはげんだ。特に剣術をよくして、二三歳の時には師範免許の腕前に達していた。惟謙はおりしも幕末の混乱に際し、郷国にあって安逸に過していることができず、元治元(一八六四)年に出郷、その後慶応元(一八六五)年に、また同三年には脱藩し、諸藩の志士と往来して、勤王討幕の企てに参加している。
維新の大業成り、明治四(一八七一)年司法省が設けられるに及んで、同年の一二月、惟謙は司法省七等出仕、それから明治二五(一八九二)年に大審院長の職を辞するまで、二一年間司法官生活を送った。この間、常に正義のために、また司法権の確立のために、力強い活動を続けた。その中で特に惟謙の名を高からしめたのは、大津事件に際しての毅然たる態度であった。これに関しては、その出生地に昭和一四(一九三九)年一一月一日、児島惟謙先生功徳顕揚会によって建てられた記念碑に刻まれている法学博士穂積重遠撰の頌文は、次のとおりである。
明治二十四年五月、未曾有ノ国難突発シ、挙国色ヲ喪ウ。来遊中ノ露国皇太子、一巡査ノ傷ツクル所トナレル所謂大津事件ナリ。当時憲法実施セラレテ僅ニ半歳、国家ノ重臣モ三権分立ノ大儀名分ニ徹セズ。然モ国力ニ自信ナクシテ、偏ヒトエニ強露ノ報復ヲ怖ル。此ニ於テ、行政ノ大臣ホシイママ恣ニ罪案ヲ予断シ、枉マゲテ犯人ヲ死ニ処シテ、露国ノ怒ヲ解カント欲ス。実ニ憲政初頭ノ一大危機ナリキ。時ナル哉、大審院長ニ其人アリ。忠誠剛直、富貴モ淫スル能ハズ、威武モ屈スル能ハズ、政府ノ強圧ヲ反撥シ、担当ノ七判事ヲ鼓舞激励シテ、断乎公明正大ノ判決ヲ下サシム。司法権ノ独立ヲ危機一髪ニ救ヒテ、台風一過暗雲拭フガ如ク、万国正理ニ服シテ天地清明旭日昭昭タリ。嗚呼護法ノ偉人抑ソモソモ之ヲ誰トカ為ス。如何ノ山川カ此救国ノ英雄ヲ生メル。時ハ天保八年二月一日、地ハ南予宇和島ノ城下、人ハ則チ児島惟謙先生ナリ。云々
惟謙は退官後、貴族院議員、衆議院議員、第二十銀行頭取などの要職についたが、明治四一(一九〇八)年七月一日、七二歳で世を去った。墓は東京品川の海晏寺にある。
昭和六〇年一月建立された銅像が城山上り立ち門の前にある。