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市指定 樺崎砲台跡

印刷用ページを表示する 記事ID:0002324 更新日:2019年3月12日更新

市指定記念物(史跡)

昭和40年ころの樺崎砲台跡樺崎砲台跡

  • 所在地 住吉町
  • 所有者 宇和島市
  • 指定日 昭和三八年二月一一日

 安政二(一八五五)年三月から一二月にわたり、一〇か月かけて宇和島湾の防備として築造された砲台の跡である。

 黒船とよばれた外国艦船が、日本近海にも出没しはじめて、鎖国政策を久しく続けてきた幕府は、沿岸諸藩にその防備を固めるよう命ずるにいたった。宇和島藩では、すでに嘉永三(一八五〇)年高野長英の設計で、御荘久良に砲台が完成。のち宇和島湾にも設けようとしていたが安政元(一八五四)年の大地震のため民力の疲弊を考え、その計画をいったん中止していた。

ところが、二宮長兵衛在明という篤士家の出資申し出があり、藩もついに、宇都宮九太夫綱敏、松田源五左衛門常愛を奉行として樺崎砲台築造に着手した。

 玉ヶ月(住吉山北側)の山や遊子の海岸から石や土砂を運び、山をきり海を埋めて構築し、五門の砲がすえられていた。のち慶応二(一八六六)年宇和島に来航したイギリス軍艦に対して礼砲を撃ったことが、アーネスト・サトーの記録に見られ、実戦には役立つものではないらしいとも記されているが、宇和島藩が砲台の西洋築造法を導入して成ったものの一つとして意義が深い。

 砲台跡の傍らに竣工を記念し、その経過を記して、安政三(一八五六)年に建てられた碑石が今も残っている。碑文は藩校明倫館教授金子孝太郎の撰になるものである。

 その後、元治元(一八六四)年湾の向かい側の戎山にも砲台が築かれた。

樺崎砲台跡
戎山から見た砲台跡周辺風景(現在)
樺崎砲台絵図
樺崎砲台絵図 (公財)宇和島伊達文化保存会蔵


文化的景観
埋蔵文化財