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市指定記念物(史跡)
大和田建樹の生家跡
「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり」
建樹が作詞した「鉄道唱歌」の冒頭のこのメロディーを知らぬ人はないであろう。明治、大正の古きよき時代、幼なかりし頃の素朴な童心をよみがえさせられる懐かしい歌の一つである。
明治の文学者として、その多彩な業績の中でも、ひときわ人口に膾炙したこの「汽笛一声」をはじめ、「散歩唱歌」「故郷の空」「青葉の笛」など多くの愛唱歌を発表し、民衆に親しまれ愛される唱歌作家として異彩を放ったその作詞者が、当宇和島が生んだ大和田建樹であることを知る人は、もはや少なくなっている。
大和田建樹は安政四(一八五七)年宇和島市丸之内に生まれた。城山の南麓、登山口の前にその屋敷が残っていたが昭和四六(一九七一)年秋、大和田家の菩提寺龍華山等覚寺境内に一部を移築、保存されていたが、現在は解体して保田の市有地に保存されている。
幼少の頃より藩校に学んだが、学才すぐれ、一四歳の時に藩公に召されて四書を進講するなど、早くも国文学者としての萌芽をあらわしている。若くして広島に遊学して英学を修め、ついで上京、さらに研鑽を積んで、ついに東京帝国大学講師、東京高等師範学校教授等を歴任した。後に職を辞してからは、専らその広範な学識を駆使して多彩な作家活動がはじまるのである。
種々の国文学の著作をはじめとし、作歌、作詞、紀行文、謡曲の註解、辞典編纂にまで及び、特に旅を愛して、自然のうつろいに人生のあわれをこめて詠んだ和歌は、実に千三百余首となっている。旅を愛した建樹は、また故郷を懐しむ望郷の人でもあった。生涯たびたび帰郷してふるさとの詩歌を作っている。宇和島駅頭の「詩碑」の一面には
わがふる里の城山に
父と登りてながめたる
入江の波の夕げしき
忘れぬ影は今もなお (散歩唱歌)
と刻まれている。彼の望郷の情がしのばれる。
明治四三(一九一〇)年一〇月一日東京牛込の法身寺で病死した。行年五四歳。
墓は東京、青山墓地にある。彼を記念するものとしては、東京新橋駅構内にある「鉄道唱歌の碑」、宇和島駅前にある「大和田建樹詩碑」などがある。