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市指定 穂積陳重・ハ束生家跡

印刷用ページを表示する掲載日:2015年7月1日更新

市指定記念物(史跡)

穂積陳重・ハ束生家跡穂積陳重・ハ束生家跡

  • 所在地 京町
  • 所有者 不明
  • 指定日 昭和三六年一一月三日

 わが国の法学のパイオニア穂積陳重・八束兄弟の生家跡は京町(旧中ノ町)にある。

 兄陳重は安政二(一八五五)年藩士で国学者の穂積重樹の次男として藩屋敷で生まれた。幼名邑次郎。藩校明倫館に学び一五歳の時藩の貢進生に選ばれて上京、大学南校(東京大学の前身)に入学、法律を専攻した。明治九(一八七六)年文部省留学生として英・独にて法学を研究し一四(一八八一)年帰朝。翌年東京帝国大学法科大学教授兼法学部長、三三歳でわが国最初の法学博士となった。法律学を講じ学生を指導すること三〇年に及んだ。明治二三(一八九〇)年貴族院議員。二四年の大津事件では犯人死刑論の非を論じ、同郷の大審院長児島惟謙を励ました。二六(一八九三)年法典調査会主査として民法・戸籍法などを研究整備し民法の生みの親といわれた。以後、東京帝国大学法科大学長、帝国学士院長、枢密院議長などを歴任し男爵に叙された。著書に「隠居論」「法律進化論」「五人組制度論」「法窓夜話」等がある。

 また陳重は愛郷心に富み宇和島のために種々奔走するとともに後輩の面倒もよく見た。市民から胸像建立の申し出があった時「胸像となって同郷の万人に仰ぎ見らるるよりは橋となって公衆に履んで渡らるるを以て無上の光栄となす」と述べて辞退。辰野川の新開橋架け替えの時、この橋に「穂積橋」と名づけたエピソードはよく知られている。橋畔に碑がある。民法学者で家庭法の権威穂積重遠は長男である。大正一五(一九二六)年四月七日永眠。七一歳であった。

 弟八束は万延元(一八六〇)年に生まれた。幼名茂三郎。明治六(一八七三)年上京、共立学校に入り、外国語学校・大学予備門を経て明治一六(一八八三)年東京大学(後の帝国大学)を卒業。翌年ドイツに留学、ベルリン大学等で公法学・欧州制度沿革史を学び二一(一八八八)年帰朝して東京帝国大学法科大学教授となり憲法講座を担当すること二〇余年に及んだ。

 その間法学博士の学位を受け、法制局参事官・枢密院書記官・法典調査会査定委員などを歴任。明治二二年公布の大日本帝国憲法の解釈と施行法の附属法典の立案等に力を尽くした。フランス民法を模範としたボアソナード民法が示されると「民法出デテ忠孝亡ブ」の論文を発表し帝大教授梅謙次郎らとの民法典論争を展開した。

 明治三二(一八九九)年貴族院議員に勅選され、宮中顧問官、帝室制度調査局御用掛、国定教科書調査委員などに任ぜられた。

 大正元(一九一二)年一〇月五日永眠、五二歳であった。八束は終生「君主制絶対主義」を貫き、民権論者の攻撃を受けたが自説を枉げることはなかった。著書に「憲法大意」「行政法大意」「愛国心」などがある。