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市指定 中野逍遥の墓

印刷用ページを表示する 記事ID:0002321 更新日:2019年3月12日更新

市指定記念物(史跡)

中野逍遥の墓中野逍遙の墓

  • 所在地 妙典寺前 光圀寺
  • 所有者 不明
  • 指定日 昭和三六年一一月三日

 逍遙・中野重太郎は慶応三(一八六七)年二月、賀古町に生まれ、幼にして漢籍を学び南予中学より大学予備門(後の一高)に進学、正岡子規・夏目漱石・佐々木信綱らと同級、相識る。明治二三(一八九〇)年帝国大学文科大学漢文学科入学。二七年九月、第一回卒業生となるも研究科に進み「支那文学史」(未刊)執筆中に肺炎となり一一月一六日永眠。卒業後わずか二か月であった。享年二八。墓は妙典寺前の光圀寺、神田川のせせらぎに近く建立され、墓誌は恩師重野安繹の撰文。法号、俊聴院素朴偉重居士。

中野逍遥 翌二八年一周忌に大学同級生や同郷有志の拠金により、「逍遙遺稿」正・外二編が刊行された。宇和島在住時代及び在京一〇年間の詩篇、賦、文、和歌の全作品を収めた。巻末雑録には大和田建樹・正岡子規・佐々木信綱らの追悼文を載せた。
 逍遙の漢詩に影響を与えたものとして唐の杜甫・宋の邵康節・唐の韓握の艶詩、さらにドイツの古典主義詩人シラーや哲学者ショーペンハウア等が指摘されている。
 逍遙は自らの詩に「狂残痴詩」なる題名をつけるなどして、情熱・憂愁・孤独感など純粋性・青春性・恋愛感情を奔放に表現した。

道情(七首の内一)
 擲我百年命 我ガ百年ノ命ヲ擲
 換君一片情 君ガ一片ノ情ニ換ヘン
 仙階人不見 仙階人見エズ
 唯聴玉琴声 唯玉琴ノ声ヲ聴クノミ

 彼の浪漫詩人としての資質は「文学界」に拠った北村透谷・島崎藤村をもしのぐとも言われている。詩人日夏耿之介は「明治大正詩史」で「中野逍遙が(明治)二〇年代の浪漫的春愁を四角な漢詩に託して、却って新体詩以上の詩的エフェクトを示した」と述べている。

 逍遙が「人間第一ノ花、唯當ニ南氏ヲ数フベシ」(「狂残痴詩」其ノ四)また「南氏淳ナリ。南君美ナリ。以テ生ヲ託スベク、以テ死ヲ許スベシ」(「南風涼及ビ磯馴松」)と詠んでいる「南氏・南君」こそ彼にプラトニックにして激しき情熱を吐露せしめた南条貞子であった。彼女は館林の素封家の令嬢で佐々木信綱の竹柏園の門下生であった。逍遙は「思君十首」「道情七首」「秋怨十絶」など切々たる思慕の情を詠んでいるが、彼女には届かず、片思いのまま世を去ってしまった。

 子規は追悼文の中で「逍遙子は多情多恨の人なり」と述べ追悼句を詠んでいる。

 いたづらに牡丹の花の崩れけり 子規

 藤村は「若菜集」に逍遙を悼む「哀歌」を収めているし、大和田建樹・佐々木信綱らも追悼の和歌を寄せている。


文化的景観
埋蔵文化財