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県指定 伊達宗城及び夫人の墓

印刷用ページを表示する 記事ID:0002316 更新日:2015年7月1日更新

県指定記念物(史跡)

伊達宗城及び夫人の墓伊達宗城及び夫人の墓

  • 所在地 野川 龍華山等覚寺
  • 所有者 伊達家
  • 指定日 昭和四四年二月一二日

 島津斉彬(鹿児島)・山内容堂(高知)・松平春嶽(福井)と並んで、幕末四賢侯の一人と称せられた宇和島伊達八代藩主、宗城の墓は龍華山等覚寺にある。

 三千石の旗本、山口直勝の第二子として文政元(一八一八)年江戸で生まれ、文政一二年、宇和島藩主伊達宗紀の養子になった。この縁組は五代村候の子が山口氏に養子に行ったので、宗紀と直勝とは従兄弟に当たるという関係になる。

 宗城は弘化元(一八四四)年に宗紀が隠居したあとを継いで八代藩主となった。この時期は、内では江戸幕府の体制はようやくゆるみ、外では欧米の列強が次第に日本に迫ってくるという重大な時局であった。

 宗城は世界の体勢を察して海外の情勢を学ぶことに努め、洋学の研究を奨励した。嘉永元(一八四八)年、ひそかに高野長英を招いて蘭書の翻訳や教授をさせ、また砲台建造について指導させた。長英の去ったのちは、嘉永六年に村田亮庵(蔵六、のちの大村益次郎)を招いて蘭書の翻訳、蘭学の教授のかたわら、軍艦建造のことを研究させた。

 また、市井の一職人であるのちの前原巧山を登用して、蒸汽船の建造を研究させ、安政六(一八五九)年に成功した。

 安政年間、将軍跡継ぎの問題が起きると、島津斉彬・松平春嶽・山内容堂らと協力して一橋慶喜を推したが成功せず、安政五年に井伊大老の内命で引退させられて、後を宗紀の子宗徳に譲った。

 その後、幕府の政局が重大になると、朝廷の招きにより、文久二(一八六二)年一二月から翌三年三月まで、同年一一月から翌元治元(一八六四)年四月、慶応三(一八六七)年四月から八月、同年一二月からと前後四回にわたって京都に上り、松平春嶽・山内容堂・島津久光とともに、四侯の一人として活躍した。

 この間、慶応二年六月には英公使パークスが英東洋艦隊とともに宇和島に来た。また、同年一二月には英書記官アーネスト・サトーが英艦に乗って宇和島の地を訪れ宗城を訪問した。宗城の存在は当時の政局に重きをなし、サトーの回顧録『一外交官の見た明治維新』中には「四国の小領地にはもったいない程有能な」とか「大名階級の中でも一番の知恵者」とたたえている。

 王政復古後は、議定・外国事務総督・外国知官事(外国官知事)等を歴任して多事多難であった維新の外交を担った。明治二(一八六九)年九月には民部卿兼大蔵卿、翌三年七月大蔵卿専任となり、国内政治確立に貢献した。四年五月欽差全権大臣として清国に赴き条約(日清修好条規)締結の大任を果たした。明治二五年一二月東京の邸で逝去した。享年七五歳。従一位・勲一等。明治二四年、嗣子宗徳は父宗城の勲功により、伯爵から侯爵に昇格した。

 夫人猶子は肥前国佐賀藩主鍋島斉直の娘で、天保一一(一八四〇)年に嫁し、慶応二(一八六六)年に五五歳で病没した


文化的景観
埋蔵文化財