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宇和島湾の防備のため安政(あんせい)2(1855)年3月から同年12月まで10カ月かけて築造された砲台の跡です。
江戸時代後期、黒船と呼ばれた外国船が日本近海に出没し始め、長らく鎖国政策を続けてきた幕府は沿岸防備を固めるよう命ずるに至りました。宇和島藩では御荘久良(みしょうひさよし)(現愛南町)・樺崎・戎山(えびすやま)・上灘(かみなだ)(八幡浜方面、未完成)の4カ所に砲台を築造しようとしました。嘉永(かえい)3(1850)年、高野長英(たかのちょうえい)の設計で久良砲台が完成し、続いて宇和島湾内にある樺崎と戎山の砲台築造に着手しようとしましたが安政元(1854)年に大地震が発生。領内の被害が甚大であったために計画は一旦中止となりました。
ところが二宮長兵衛在明(にのみやちょうべえありあき)という篤志家が砲台築造費の出資を申し出、藩は家老の桜田佐渡(さくらださど)を頭取、宇都宮九太夫綱敏(うつのみやきゅうだゆうつなとし)・松田源五左衛門常愛(まつだげんござえもんつねちか)を用掛(ようがかり)として樺崎砲台の築造に着手しました。近隣の山や海岸から石や土砂を運び入れ、海を埋め立てて工事は進められ、5門の砲台が安政2年に完成しました。
樺崎砲台は洋式(オランダ)工法によって築造されましたが、威遠(いえん)流砲術家によって正面5門の砲のほかにさらに2門の備砲が置けるよう工夫されていました。慶応(けいおう)2(1866)年6月、イギリス公使パークスが宇和島に来航すると彼の乗る軍艦に対して礼砲を撃ち、同年12月※、アーネスト・サトウが宇和島を訪れた際には礼砲に対する答礼砲を撃っています。 ※サトウの記録では1867年1月とありますが、このページでは和暦に変換して表記しています。
安政3(1856)年、砲台の完成を記念してその経緯を記した石碑が建てられました。碑文は藩校明倫館の教授であった金子道孝(かねこみちたか)の撰(せん)によるもので、現在も同地にその姿を残しています。
平成4年に整備を目的とした史料調査・発掘調査を実施し、その成果を基に胸墻(きょうしょう)や肩墻(けんしょう)などの復元整備を行っています。
【樺崎砲台跡】
【樺崎砲台 想像図】
【昭和40年頃の樺崎砲台跡】
【現在(令和3年6月)の樺崎砲台跡】
【竣工記念碑】