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印刷用ページを表示する 記事ID:0118575 更新日:2026年3月6日更新

【宇和島の偉人04】伊達宗城は宇和島藩だけで○○○を完成させた?

伊達宗城 (だて むねなり)|第8代宇和島藩主・幕末の四賢侯の一人
1818(文政元年)~1892(明治25年)

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伊達宗城は江戸の旗本・山口直勝の次男として1818年に生まれました。山口家は、第5代宇和島藩主・村候(むらとき)の次男・直清の養子先で、宗城は村候のひ孫にあたります。その血縁から10歳のとき、後継ぎのなかった7代藩主・宗紀(むねただ)の養子となり、1844年、宗紀の隠居に伴い27歳で家督を相続します。

第8代宇和島藩主となった宗城は、先代の藩政改革を引き継ぎ、富国強兵策や文武教育振興を積極的に展開します。宗城が重視したのは、軍備の近代化と海の防衛強化。このため蘭学の導入を積極的に進め、高野長英や村田蔵六(後の大村益次郎)を招いて、兵学蘭書の翻訳や蘭学の教授、砲台設計などにあたらせます。また、経済政策にも力を入れ、和紙や木蝋(もくろう)の専売制強化により藩の増収を図るとともに、陶器や海産物など地場産業の育成により農漁村を発展させました。

1850年には、御荘久良(みしょうひさよし ※現愛南町)に長英の設計による砲台が完成。ペリーが浦賀に来航した1853年には蔵六を蘭書翻訳御用として招聘し、蘭書翻訳・蘭学教授の傍ら軍艦建造を命じます。その後、藩内の提灯職人であった前原巧山も登用して蒸気船の建造を研究させ、1859年には日本初となる純国産蒸気船の建造に成功したのです。
この快挙について、作家の司馬遼太郎は短編集『酔って候』の中の一編「伊達の黒船」で、「この時代に宇和島藩で蒸気機関を作ったのは、現在の宇和島市で人工衛星を打上げたのに匹敵する」と評しています。

幕末期には、病弱であった第13代将軍・徳川家定の跡継ぎ問題など政局にも関与します。宗城は一橋慶喜(よしのぶ)を推す「一橋派」として活躍したことで大老・井伊直弼と意見が対立。1858年の「安政の大獄(※1)」で隠居・謹慎を命じられ、養父・宗紀が隠居前に授かった実子・宗徳(むねえ)に家督を譲ることとなりますが、その後も大政奉還に尽力するなど政界で活躍し、松平春嶽、山内容堂、島津斉彬とともに「幕末の四賢侯」と称されました。

1866年6月に英国公使パークス、同年12月には同国書記官アーネスト・サトウが宇和島を訪問。サトウは回顧録の中で、宗城のことを「四国の小領地にはもったいないほど有能」、「大名階級の中でも一番の知恵者」と讃えています。

明治維新後は、議定(新政府の最高官職の一つ)や外国事務総督、初代外国官知事などの要職を歴任し、日本の外交を力強く牽引しました。1871年に欽差全権大臣(※2)として清国(現在の中国)天津へ赴き、両国間の対等条約である「日清修好条規」を締結するという大任を果たします。政府公職を退いた後も修史館(※3)副総裁などを務め、1892年、75歳で亡くなりました。政治、経済、学問と多方面で活躍した宗城。日本の近代化に大きな功績を残しました。


※1 安政5~6年(1858~1859年)、将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印を巡って、大老・井伊直弼が幕府反対勢力を弾圧した事件。次期将軍に一橋慶喜を推した”一橋派”と、条約の無勅許調印(天皇の許可なく締結)を批判した“尊王攘夷派”の大名や公卿たちを対象に、投獄や処刑、謹慎など次々と粛清を行った。
※2 「欽差」とは天皇の命を受けて派遣されたことを、「全権大臣」は国を代表して条約を結ぶ全ての権限を与えられた責任者を意味する。
※3 明治初期に官設された歴史編纂所

 

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