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3/25配信
【宇和島の偉人05】土居通夫が大阪に○○○を建設!
土居通夫 (どい みちお)|実業家
1837(天保8年)~1917(大正6年)




土居通夫は宇和島藩の下級武士の6男として、1837年に市内元結掛で生まれました。幼少の頃より文武に秀で、11歳で窪田派田宮流の道場に入門。幼なじみの児島惟謙※1と共に剣術修行に励みます。21歳には免許皆伝を授けられ、藩内一の居合抜きの名人といわれるまでになりました。
1861年、他流試合を求めて道場を訪れた坂本龍馬と出会います。この時、龍馬から「脱藩すればいい、こんな城下で何ができるのか。」と国事を説かれ、強く感化された土居は、1865年に勤王を志し脱藩。大阪へ向かいました。
大阪では、伯父の紹介により両替商の鴻池三郎兵衛のところで用心棒として住み込みました。ここで土居は剣術だけでなく、金銭出納の才も発揮し、商人としても評判となりました。
鴻池家で奉公しながら勤王運動にかかわり、1868年の鳥羽伏見の戦いでは土佐藩の後藤象二郎の配下で活躍します。この時、京都が戦乱に巻き込まれるのを予感した土居は、あらかじめ米問屋に依頼し、京都にある宇和島藩邸に米を送ります。この機転により宇和島藩の兵糧米が確保され、当時の宇和島藩主・伊達宗城※2から功を認められた土居は、帰藩を許されたのでした。
明治維新後は、大阪裁判所(後の大阪府)の副総督となった伊達宗城のもとで外国事務係に採用されました。さらに統括責任者であった五代友厚にその異能を認められると、1869年大阪府権小参事に就任。1872年には上京して司法省に入り、大審院(現・最高裁判所)判事、大阪重罪裁判所長などを歴任します。退官するまでの間に土居は、伊藤博文や大隈重信、大久保利通などの政界の要人や、住友家・鴻池家など大阪財界との関係を深めました。
1884年、鴻池家から事業再建を依頼されたことを機に、実業界へ転身。1887年に大阪電灯会社を設立したのをはじめ、大阪毎日新聞、日本生命保険、京阪電鉄、大阪実業銀行(りそな銀行の前身)などの経営に携わり、関西財界の巨頭として近代化を推進しました。
1895年には大阪商業会議所(現・大阪商工会議所)の第7代会頭に就任。大阪財界最有力指導者として活躍しました。特に語り継がれているのは、1903年の「第5回内国勧業博覧会」の誘致合戦において、東京に勝利したことです。同博覧会は、「東京・京都・大阪 輪番開催」の協定により大阪で開催されるはずでしたが、国では東京開催を推す声が高まっていました。
土居は「協定が無視されることは大阪市民の面目を汚辱するのみならず、帝国商工業の中心地として、世界に認識せられたる大都府の信用も地に堕ちる」と激高し、自ら巨額の借金で運動費を工面するなどして大阪開催を実現。パリ万博視察の知見から、最新の科学文明の紹介など娯楽性を取り入れたことで、博覧会は5カ月間で534万人の来場者数を記録するほどの大盛況となりました。
閉会後、跡地に作られた遊園地「新世界ルナ・パーク」には、パリの凱旋門とエッフェル塔を真似た通天閣が建設され、「商都大阪のシンボル」として今も多くの人に愛されています。
1917年、80歳で亡くなりますが、同郷の穂積陳重※3は弔辞で「君は先見の人であった。君は寛宏の人であった」と述べ、土居の功績と人柄を惜しんだそうです。
※1 宇和島の偉人vol.1(2025.8.6投稿)で紹介
※2 宇和島の偉人vol.4(2026.3.9投稿)で紹介
※3 宇和島の偉人vol.2(2025.9.26投稿)で紹介
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