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11/12配信

印刷用ページを表示する 記事ID:0118545 更新日:2025年11月12日更新

【宇和島の偉人03】山下亀三郎は○○王?

山下亀三郎 (やました かめさぶろう)|実業家
1867(慶応3年)~1944(昭和19年)

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山下亀三郎は1867年、宇和郡喜佐方村(現宇和島市吉田町)の庄屋に7人兄弟の末っ子として生まれました。宇和島の南予中学校(現宇和島東高等学校)に入学するも中退し、15歳で家出をします。その道中、母が送った使いの者から「偉くなって大手を振って村の道を歩けるまでは帰ってくるな」という伝言を聞かされます。その言葉は亀三郎の胸に深く刻まれ、生涯忘れることがなかったといいます。

18歳になると上京し、明治法律学校(現明治大学)へ入学しますが、判検事登用試験に受からず中退。その後、様々な職に就きますが、どれも長続きしませんでした。

亀三郎の運命を変えたのは、竹内兄弟商会の石炭部で働いたことがきっかけでした。日清戦争の特需に沸いていたこの時期、石炭輸送の必要性から初めて海運業と接し、1897年には当商会の石炭部を譲り受けるかたちで独立。
その5年後に英国船を購入し、「喜佐方丸」と命名して海運業に乗り出すと、親交のあった同じ愛媛県出身の海軍大尉“秋山真之”から日露開戦間近との情報を得て、喜佐方丸を有利な条件で貸し付けられる徴用船として国に提供しました。同時に、高騰を見越して石炭を大量に買い占め、日露戦争が終わる頃には、巨万の富を築いたのです。

その後木材事業なども始めますが、戦後の不況到来で失敗し、多額の負債を抱えます。しかし、海運業で盛り返した亀三郎は1911年に山下汽船合名会社を設立。1914年の第1次世界大戦勃発で海上輸送の需要が増大すると、所有船をヨーロッパへ貸し出して莫大な利益を上げました。
以降、新造船の建造や外国航路への進出などにより海運業を拡大し、大戦後の恐慌や関東大震災など幾多の苦難を乗り越えながら、業界トップクラスの会社に発展させた亀三郎は、「海運王」と呼ばれるようになります。

山下汽船は合併を繰り返し、現在は商船三井となっています。元東京都知事・石原慎太郎さんと俳優・裕次郎さんの父・潔さんも、愛媛県南予出身の縁で山下汽船に勤め、会社の発展に尽力したといいます。他にも三井住友海上火災保険や住友重機械工業、東洋建設など、亀三郎が創業した企業が今の日本を支えています。

「自分が少しでも国家の役に立てる人間になれたのは母のおかげである」として亀三郎は女性の教育に力を注ぎます。1917年に地元吉田町に山下実科女学校(現愛媛県立吉田高等学校)を、1920年には第2山下実科女学校(現愛媛県立宇和高等学校三瓶分校)を設立します。また、故郷の発展のため、小学校や図書館、トンネル、運河の整備などに私財を惜しみなく投じました。東京の桐朋学園の前身となる山水中学校と山水高等女学校も亀三郎の寄付を基に創設されています。

1944年に亀三郎は亡くなりますが、吉田町にある桜橋の北側には、吉田茂元首相の題字による「山下亀三郎翁像」が建てられ、故郷への偉大な功績を今も変わらず称えています。

 

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