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宇和島の若手事業家3名が語る「生き方・働き方から見た宇和島の魅力」|市民説明会レポート 前編
みんなで創る、うわじまシティブランディング事業。宇和島のブランドを “ALL宇和島” で創り育てていくための第一歩として、6月26日(水曜日)に市民説明会を実施しました。
前半は、宇和島市市長公室シティーセールス推進係の谷本係長より本事業の概要を説明し、事業受託者である株式会社コトヴィアの荻原代表より、「人々に共感されるシティブランド」と題して、事業に込めた想いや宇和島に関する市内外の印象調査結果等を交えながら、「宇和島百景」など、各プロジェクト進捗状況をお伝えいたしました。
そして、ブランディングチームのメンバーでもある株式会社NINO二宮代表より、「応援される まちの情報発信力」と題して、他自治体のプロモーションとしてワークショップを通じて映像コンテンツを作り、情報発信をした事例を紹介しました。
後半は宇和島市にUターンされた若手事業家の3名、柑橘ソムリエ愛媛理事長 二宮新治氏、一般社団法人ヒメセカ代表 入江あゆみ氏、井伊商店三代目店主 井伊友博氏が参加。二宮氏(NINO)がコメンテーター、荻原氏がモデレーターとして加わり、「生き方・働き方から見た宇和島の魅力とは」と題してパネルディスカッションを行いました。
本記事では、パネルディスカッション前編の様子をご紹介します。
荻原)本日パネラーとして参加していただく3名は、1度宇和島市から外に出て、様々な経験を積んでから地元に戻ってきている事業家のみなさんです。1度外に出た視点で捉える宇和島の魅力をぜひお聴きしていきたいと思います。
本日は二宮さんがお2人いらっしゃるので、下の名前で新治さんと呼ばせてください(笑)。まずは、新治さんから自己紹介をお願いします。
二宮新治(以降:二宮新))私は、宇和島市の生まれで、ニノファームという柑橘農園を営んでいます。宇和島を出て10年ほど、京都でアパレル関係の仕事をしていました。28歳のときに宇和島に帰ってきて、家業である柑橘農家に転身しました。その後、仲間たちと2015年に柑橘ソムリエ愛媛を立ち上げ、設立から現在まで理事長を務めています。柑橘ソムリエとしての活動は、松山や高知、東京など市外で、宇和島の柑橘のよさを発信するイベントを企てています。
荻原)最近、柑橘ソムリエさんは、クラウドファンディングを実施されたご様子ですけれども、その後いかがでしたでしょうか。
二宮新)柑橘ソムリエの資格を立ち上げるために、クラウドファンディングを実施しました。僕たち(柑橘ソムリエ)はNPOですけれども、補助金をほぼほぼ受けずにずっとやっていて、自分たちでジュースやみかんを販売した薄い利益で運営しています。
でも、柑橘ソムリエの資格の立ち上げのやめには、ライセンスやテキストブックを作ったり、いろいろなPRのイベントなんかもしないといけない。お金がたくさんかかるというので、クラウドファンディングを試みました。5月の終わりごろから実施して、ちょうどまさに今日のお昼に予定の金額を達成しました(会場拍手)。
今、ここで大事な話をしなくてはいけないですけれども、お昼ごろからすでに僕は一杯飲みたい気持ちになっています(会場笑)。この中にもご支援をしてくださった方がたくさんおられますし、本当に皆さんの力でここまで来られたなというところです。ただ、まだスタートラインに立っただけなので・・・。今からこの半年、本当にしっかりとやっていきたいと思っています。「柑橘ソムリエ」という名前だけでも皆さん、ぜひ覚えてください。
荻原)新治さん、ありがとうございます。では、入江さん、よろしくお願いします。
入江)ご紹介にあずかりました、一般社団法人ヒメセカの入江あゆみと申します。皆さんにお伺いしたいのですが、『ヒメセカ』ってご存じの方はいらっしゃいますか?(客席数名挙手)ちらほらといらっしゃいますね。ありがとうございます。私、いつも中学生や高校生の前で話をすることが多いんですね。今日ののようなお兄さんやお姉さん方の前で話すことはないので絶対に緊張すると思って、メモを用意してきました(笑)。ちょっと失礼します。
一般社団法人ヒメセカは、2017年、私がカンボジアにいた時に設立しました。『自分らしく活躍する人・社会を作る』を理念に、愛媛の未来を担う若者向けに、世界中で活躍をしている愛媛県人を紹介するウェブメディアを運営しています。最近は高校生や中学生に向けて、学校に行かせていただいて直接授業をすることもあります。
私は、もともと宇和島市津島町の出身です。当時の宇和島南高校を卒業して、父の母校である東京の大学に入学しました。実家が自営業だったので、そんな人たちのサポートをしたいと思って、政府系の金融機関に入りました。けれども、金融支援をしても倒産する企業を見て、「いいものでも売れないと意味がない」と感じ、アメリカでPRの勉強をしました。2014年に「これからは東南アジアの時代がくるな」と思ったタイミングで、アジアのフロンティアと呼ばれていたカンボジアに渡りました。
ヒメセカを立ち上げたきっかけは、プノンペンで開催した愛媛県人会でした。だいたいどこの国にも愛媛県人会というものがあるのですが、プノンペンで開催をした時、なんと16人の愛媛県の方が集まったんです。「カンボジアに、愛媛の方々がこんなにたくさんいるのか!」と驚きました。
プノンペンの愛媛県人会
「世界のどこかで頑張っている愛媛県人はたくさんいる。その人たちを紹介したい」という気持ちで立ち上げたのが、ヒメセカです。ただ、ヒメセカを通してたくさんの人と出会う中で、「海外だけが正解じゃない。愛媛でも海外でも社長でもフリーランスでも主婦の方でもいい。自分らしく活躍をしている方が素敵な方だな」と思って、今はヒメセカというのを「世界中で活躍をしている愛媛県人の方、愛媛県内外を含む」と定義しています。
荻原)入江さん、ありがとうございました。では井伊さん、よろしくお願いします。
井伊)ちょっと映像を流しながら自己紹介をしようと思います。今から流す映像は2年ほど前に博報堂が取材に来た時の映像です。僕は、井伊商店三代目の井伊友博と申します。麦味噌の製造販売をしています。二宮(新)さんの柑橘ソムリエのように柑橘を盛り上げるとか、、入江さんのように一般社団法人に属して地域の人らと仲良く盛り上げるとかではなくて。本当にただの職人として、ただの味噌屋として、今日ここに呼んでもらっているのを不思議に思っています。
昨日も妻と少し話をしていて、「ちょっと明日夜おらんけん」と言ったら、「どこ行くんよ?」と。「こういう場に行く」と言ってこのイベントのチラシを見せたら、妻が二宮さんと入江さんの経歴を見て、「え?あんた味噌屋やん」という感じで(笑)。「何話すん」みたいな感じで言われたのですが・・・(会場笑)。今日はありがたいことに、荻原さんに声をかけていただきました。
僕は高校卒業後、広島の大学に進学して建築の勉強をしていました。本気で建築家を目指していました。偶然なんですけれども、先ほど二宮さんが紹介されたKITTEの「シンエヒメ」を手掛けられた建築家の谷尻誠さんのオフィスにも一時期おりました。で、岩国の設計事務所に行き、それから地元で独立をしようと思って松山の店舗設計の会社に入社しました。
そこで地元愛媛に帰ったら、宇和島のことを考えることが結構多くなったり、地元の友だちが結構松山にいたりして、家のことや家業のことを話したりすることもあって。やっぱり今三代目として、二代で潰すのはもったいないなと思い始めていました。
あとお味噌とか、お醤油とか、お酒とかもそうですが、一番大事なものって蔵に住み着く菌なのです。それが味の決め手であって、そのお店の味噌や醤油やお酒、食べてくれている方って必ずそこの味噌とか醤油、発酵調味料が特にそうで、気に入ったら本当にずっと買ってくれるんです。
県外にもかなりお客さんがありがたいことにいらっしゃいます。「お宅じゃないといかん」という方がほとんどで、それは蔵につく菌が味を作っていると思っています。なので、その蔵につく菌を今潰してしまうと・・・。本当に1年、2年やそこらではできないことなのです。何十年とかかる。うちはまだ創業70年弱くらいですが、そういうのを潰すのはもったいないと思って、地元に帰って家業を継ぐことにしました。
荻原)ありがとうございます。では自己紹介いただいた内容から、質問をさせていただきたいと思います。まず入江さん。私が入江さんのことを知ったのは数年前で、SNSでみかんのぬいぐるみを持った女の子(入江さん)の情報が流れてきまして、「この子は何者だろう?ヒメセカ?って何?」と思ったのが最初の接点です。ヒメセカのサイトに訪ねていくと、入江さんという可愛らしい女性が代表で、宇和島出身と書いてあって。「面白いことを仕掛ける宇和島出身の子がいる!」とすごくうれしかったことを覚えています。入江さんとヒメセカの存在を数年前に知ってから、縁あって、今年やっとお目にかかることができました。
入江さんは、愛媛を発信するということを、どういうふうに考えていますか?
入江)先ほど『みきゃん』の話が出ましたが、私はヒメセカを立ち上げた当初から、このみきゃんのぬいぐるみを持って世界中を回るという活動をしています。みきゃんは日本も入れて10カ国回ってきました。みきゃんが写真に登場すると、ありがたいことに愛媛の方々の目にとまり、Instagramやホームページを見ていただくきっかけになるんです。
愛媛発信の目的は2つです。まず、ファン作り。もう1つが、外の人たちが愛媛に関わるきっかけを作ることです。実はヒメセカ自体がそうやって生まれたという背景もあります。
私がカンボジアにいた時に「こんなことがしたい」ということをFacebookで発信しました。そうしたら、全然友だちでもなかった愛媛県西予市出身で東京在住女性と、愛媛の会社に勤めている、アメリカ在住の男性が「自分たちもやりたい」と言ってくれてのがヒメセカ設立のきっかけです。
その時はまだ友だちでも出会ったこともなかったので、1カ月間Facebookのメッセンジャーでずっとやりとりをして。やっと出会えたのが、私がカンボジアから東京に帰ってきたときでした。現在ヒメセカは、私も含めてボランティアで運営をしています。今は愛媛出身以外の方も入ってくださって、メンバーが30人近くになりました。メンバーは世界中に散らばっています。これがファン作りですね。
世界中を旅しているみきゃん
もう1つの、愛媛に住んでいない方に愛媛に関わりたいというきっかけを作りたいと思いについてですが、ヒメセカはインタビューサイトなんです。取材をして誰かの活躍を取り上げて載せる。これらの業務を今オンラインですべて行っています。ですので、例えばドイツだったりミャンマーにいる愛媛県人にも取材ができるんでうね。実際に「取材をしたいんです」と連絡をしたら、快く引きつけてくださる方が多いです。すごくうれしい。
やはり、愛媛ではない場所に住んでいる方にとって、生活も仕事もある中での移住やUターンはハードルが高いとみなさん言われます。でも今はオンラインで何でもできるので、インタビューもそういったツールを使って、世界中どこにいても愛媛に関わりたいと言ってくださる方なら大歓迎だと思っています。というのが、発信への思い。発信している理由です。
荻原)入江さん、ありがとうございます。発信したい思いが、二拠点生活というか、デュアルライフという生活のスタイルにも影響している感じですよね。
入江)はい。今、二拠点生活をしていて、東京と愛媛を往復しています。月の半々東京と愛媛にいます。
荻原)ありがとうございます。続きまして井伊さんに伺いたいと思います。井伊商店さんの麦味噌は、うちの実家でもずっと長く使わせていただいていて、私にとったら日常すぎたんです。実は4月に東京から10人ほどグルメ好きの御一行を宇和島にご案内したのですが、いろいろな観光地を巡っている途中で、「宇和島だったら井伊商店さんがあるよね」とある有名なグルメ評論家の方がおっしゃって。「え?」と思いまして。私にとったら非常に日常だったので、井伊商店の麦味噌が、グルメ評論家の方々にとったらすごく魅力だということに初めて気づかされて。すぐに宇和島市内の観光地を案内中に、井伊さんにご連絡差し上げて、見学させていただきました。
その時、すごく鳥肌が立ったのを覚えているんですけれども、味噌を作る現場が本当に美しいのです。こういった美しいところで菌が育って、何十年も受け継がれていらっしゃる、こういうところからおいしい味噌ができるのだなと。それが嬉しくて、すごく誇りに思えました。ぜひそういった伝統を受け継ぐ立場として、三代目として後継された井伊さんにお話いただきたいなと思って、今回お願いをした次第です。
井伊さんの、伝統を引き継ぐことへの思いとか、味噌作りへのこだわりを教えていただけますでしょうか。
井伊)三代目ってよく「三代目で潰す」とか良く一般的に言われたりもします。三代目として家業を継いだときは、がむしゃらに仕事をして、日曜日はイベントに出店して・・・ということを繰り返していました。イベントに出店していることに対して、初めて挫折を味わったのが、当時書いていたブログ上で、1回すごく叩かれてしまったことです。
宇和島の方だとは思うのですが、「職人は、そういう場に出るのではなくて、じっと家で作り続けとったらいい身分じゃ」みたいなことを書かれました。僕もそれで落ち込みまして。やっぱり地元に愛されている味噌であって、一番消費してくれているのはもちろん宇和島の人です。
だけど、宇和島は人口も減ってきていますし、宇和島だけで閉じこもって商売をしていると、うちは衰退していく一方だと思ったので、そうやって外に出て行くのは諦めずに続けていました。
そういった結果、ありがたいことに色々なメディアや雑誌に取り上げてもらうことが多くなってきました。この4月も、実は有名な美食家の方が来られたんです。その方の本名を聞いてから注文の履歴を見たら、何度もうちの麦味噌を注文をしていてくれる方だったということが分かったんです。その方がすごい美食家だというのを知って、「いいものを作っていたら、どこかで東京の方が広げていってくれている」と思いました。
自分の家に閉じこもって職人としてやるのも、もちろん1番大事だとは思いますが、そうではなくて外に発信することも、その次くらいには大事かなと、今思っております。
荻原)そのグルメ評論家は、マッキー牧元さんという方で、アンジャッシュ渡部さんの師匠といわれている方です。毎年大きなホテルに300人ぐらいを招待して、全国各地から食材を使って名シェフに料理をさせて、お料理をふるまうというイベントをしておられるようで、そこで井伊さんの麦味噌汁を提供されているそうです。
4月にマッキー牧元さんを井伊商店さんにお連れしたとき、「井伊さんの味噌は、白身魚によく合うよ」と言われたんです。私はそこでハッとしまして、白身魚も「鯛じゃん!」と思い、地元にあるものがそういうふうに評価されるというのはすごく本当にうれしいなと思いました。今後もいい味噌をずっと作り続けていただきたいなと思います。
引き続きまして、新治さんにお伺いしたいと思います。
去年の7月豪雨災害で、宇和島は吉田地域を中心に大きな被害がありました。柑橘ソムリエのお仲間の皆さんもいろいろ被害にあわれたと思いますが、災害をみかん農家としてどういうふうに見られたか、どういうふうな乗り越え方をして来られているのか、そういった災害を経験したことへの思いをぜひ語っていただけたらと思います。
二宮新)ここにおられる方は、おそらく災害のこととかは十分ご存じだと思いますので、カットさせていただきますが、家が崩れたり、亡くなった方もおられます。僕らのみかん農家関係も、特に吉田町を中心にすごい被害を受けました。柑橘ソムリエも吉田町のメンバーが8割くらいを占めています。吉田以外の人も大なり小なり受けていたりはするので、本当にみんなが異常事態という感じになってしまいました。
それに、みんな同世代の農家だから消防団とかにもほぼ全員入っているし、自分のところの畑以前にそっちの方が最優先なんですよね。彼らは自分のことよりも地域の人のことを思って行動していました。自分のところが本当にすごいことになっているのに、それに手を付けられない状況からスタートして、水も出なかったので風呂も入れないし、ご飯も十分に食べられない。そういった中でずっと過ごしていました。
僕は吉田町ではなく旧宇和島市なので、被害もごくごく軽いし、水も出るし、ご飯も普通にコンビニに行ったら何でも買えたようなところでしたが、逆に一歩外から見て思うこともありました。最初は本当に「吉田=被災地」みたいになって、みんなが苦しい生活をしていて、助けに行きづらい、会いにも行きづらい感じだったんです。でも、災害が起きた4,5日ぐらい後に会い行ってみると、妙に明るいんですよ、みんな。
非常事態でアドレナリンが出ているっているのもあるんでしょうけど、たぶんそれだけではなくて、根っからの気質というか、宇和島の気質というか、農家の気質というか。不謹慎に思われる方がおられたらあれですけれども、被災しましたというのを笑い話にするぐらいの勢いで、楽しくワイワイとやっていました。
僕はそれを見た時に安心したんですね。「柑橘ソムリエの活動もどうなるかな?」と思っていたんですけれども、全然問題ないなと。被災が軽かった地域の人間が全力でやっていこうという気持ちになれました。さっき宇和島の明治維新時代の話もありましたけれども(前談、荻原の「うわじまシティブランディングで大切にしていること」より)、昨年の災害はみかん農家にとっての「明治維新」だったのかもしれないなと。「大きなことがあって、さらに前に進む」みたいな、ターニングポイントになったのかなと思います。
荻原)自然災害は避けられないこともありますし、被害はとても悲しいことでもありましたが、人のつながりや絆や、何か大切なものを思い出させてくれる機会でもありました。災害当時、地域の消防団の皆さんの活躍は耳に入りました。ところで、柑橘ソムリエの皆さんは、若い世代の方は多いのですか?
二宮新)スタートした時には、若手と言われていたんですけれども、だんだん歳をとってきまして(笑)。40歳手前くらいが多いです。
荻原)ぜひ若い有志を束ねてこれからもいろいろ挑戦していってほしいと思います。新治さんは東京のほうでも柑橘ガールズとかイベントをされていますよね。柑橘ソムリエは、いろいろなイベントも参加されたり、企画されたりしているのですか?
二宮新)はい、やっています。ライフワークのひとつになっている感じです。僕らみかん農家って、みかんを作って販売をするだけだと、やはりそれ以上にはならないんです。僕たち柑橘ソムリエは農家なので、作るということが第一なんですけれども、柑橘を「エンターテインメント」として考えていまして。どうやったらおもしろくできるか、興味のない人に興味を持ってもらえるかとか、そんなことを企画しています。
今、「柑橘ガールズが」とおっしゃっていただきましたけれども、柑橘って世の中ではお年寄りの食べ物だったり、みかん農家もおじさんが多いというイメージで、柑橘と若い女性というのは、たぶんもっとも遠い存在だと思われがちなんじゃないかなと。でも、皆さんご存じじゃないかもしれませんが、熱狂的なみかん好きの20代女子というのが僕の周りには結構いまして。
東京に住んでいるけど宇和島にもよく来ている女子もいますし、僕たちの柑橘ソムリエのメンバーになりたいといって、女子大生が入ってくることもあります。少しずつですが、そういった角度で今までになかった柑橘の価値観を作っていきたいと思っています。半分はふざけていますが、半分は本当にまじめにやっています。