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市指定 高野長英の居住地跡

印刷用ページを表示する 記事ID:0002328 更新日:2019年3月11日更新

市指定記念物(史跡)

辰野川沿いの居住地跡(切妻和瓦葺、平屋の建物が残っているが、平成23年に修復されたもので、長英居住のものではない。)高野長英の居住地跡

  • 所在地 新町
  • 所有者 宇和島市
  • 指定日 昭和三八年二月一一日

 高野長英(号は瑞皐)は、陸奥水沢(現在の岩手県)生まれの蘭学者で、若い時から刻苦勉励蘭学にはげみ、ついにシーボルト門下の逸材として有名になった。江戸で蘭医を開業、名医と称せられ、西洋事情の調査研究と普及にも努めたが、『夢物語』を書き幕府の政策を批判したため、捕えられて、終身刑となった(蛮社の獄)。

 牢獄生活六年の後牢舎の火災で囚人一同仮釈放となったが、逃亡し、脱獄囚として三年に及ぶお尋ね者の生活を送った。

 八代藩主伊達宗城は、彼の学識・才能を評価し秘かに保護の手を差し伸べ、宇和島に呼び寄せた。

 長英は出羽の蘭学者、伊東瑞渓と名乗り嘉永元(一八四八)年四月二日、富沢礼中と共に宇和島に入り、家老桜田佐渡の別荘(新町)に居住することになった。辰野川を隔てて錦町(旧向新町)に対した所である。彼は五岳堂と名付けた学塾で藩公から命ぜられた四人の青年に蘭学の教授をし、また藩のために翻訳にも努めた。更に藩命により城辺久良砲台(現・愛南町)の設計築造にも従事した。

 この五岳堂には、「学則」があった。

 西洋の古語に曰く、学問の道は須らく雫の石を穿つ如くせよ。之れ夙夜黽勉懈ることなければ、遂に大成を爲すべしとの謂なり。今それ西洋の書たるや、その文字蟹行、其音鴃舌にして語脈の連なる所、文意の繋る所、前後錯雑、紛々として規律なきが如く然り。然れども其法厳密、修理斉整、譬へば日月の行道を違へざる、星辰の其の位を失はざるが如きなり。故に朝に之を習ひ夕に之を誦し心を罩め思ひを積めば、則ち鬼神も将に通ぜんとす。何か解すべからざらんや。学者唯須らく黽勉の二字を守るべし。
 もしそれ自暴自棄は則ち吾徒にあらざるなり。
(原文は漢文)

 以上が第一則で以下受講中の心得、授業時間、面会日などを定めている。

後藤新平の筆による石碑 しかし彼の居住が幕府に探知されたという情報により嘉永二年一月ころ卯之町に移ったが、のち江戸に潜入。翌嘉永三年一〇月末捕史に囲まれ自刃した。

 旧桜田別荘を購入した実業家久都直太郎氏によって、昭和一二年二月、長英の同郷の後輩で医師であり政治家の後藤新平伯筆で「瑞皐高野長英先生居住之地」の碑が建てられた。

 平成二三年三月この居住地跡を市が購入し、観光拠点の一環として整備し、明治以降に建て替えられた古民家を復元改修した。従って建物は実際に長英の住んだものではないが、隠れ家の雰囲気は味わうことができる。

 宇和島市観光協会が吉村昭の『史実を歩く』の長英に関する文章を案内板に記している。


文化的景観
埋蔵文化財