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市指定記念物(史跡)
西園寺宣久の墓
南北朝時代(一四世紀)のころから、来村の地に西園寺氏の一族が下向土着し、来村殿と呼ばれていた。西園寺宣久は、この来村殿と称せられた来村西園寺氏であるが、のち天正三(一五七五)年に板島丸串城(今の宇和島城)の城主となり、その後は板島殿と称せられた。板島殿西園寺宣久が領主として支配した領域は、来村地区祝森の一部と三浦地区・宇和海地区を除いて、大体平成一七年合併前の宇和島市の地域と同じである。
当時、宇和西園寺氏の実充は松葉(現西予市宇和町卯之町)の黒瀬に住んでいたので、黒瀬殿と称されていた。大洲の宇都宮氏が弘治二(一五五六)年東多田瀬戸口に攻め入った時、嫡子公高は防戦につとめたが、戦い利あらず戦死した。実充は、世嗣がなくなったため、来村来応寺住僧が実充の一族であったので、還俗させて西園寺家を継がせた。即ち西園寺公広で、宣久の兄弟である。
宣久は天正四(一五七六)年ごろに、伊勢神宮参詣の旅を行い、その時に和歌二四首、俳諧五句をとりまぜた紀行文『伊勢参宮海陸の記』を作っているが、それを見ると、宣久が歌道や連歌の素養深く、また歌物語などをよく読んでいたことが知られる。
鳰におの海のほとりを行けばくるる日に山田やば瀬の舟よばふ声
花に出て月にかりねの都かな
幾仮寝今宵ぞ萩が花の宿
三間成妙の仏木寺の文書が兵乱のため奪われた
が、宣久によって取戻したという記録もある。宣久の人物の一端をうかがうことができる。
天正八(一五八〇)年五月一八日、病のため死去した。行年は不明であるが、若年での死であったという。「後西園寺殿羽林郎将永桃道宗大居士」という法名で、来応寺に葬った。墓は今の宮下来応寺の門前にあり、高さ一六〇cmの宝篋印塔で、後西園寺様として、宮下住民の崇敬を受け、旧暦三月と一〇月の一八日を祭日としている。
宣久の辞世の和歌二首がある。
朝な夕な何に心を尽してやいたづら事にけふとこそなれ
世の中は皆偽りの其内に此一言のまことなりけり