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「吉田の三傑」について

印刷用ページを表示する 記事ID:202002172 更新日:2021年2月18日更新

明治維新以降、各界で活躍した宇和島市吉田町出身の方は多いですが、明治、大正、昭和にかけての吉田を代表する人物は誰かと問われると、清家吉次郎、村井保固、山下亀三郎の3人を避ける事は出来ないように思えます。宇和島市吉田町の方は、この3人を指して「吉田の三傑」とも呼びますが、この3人の人物は、明治、大正、昭和初期にかけての吉田町で、教育、医療、産業等、町としての基盤を整え、地域の発展に尽くしました。ここでは「吉田町誌 下巻」、「吉田町誌 昭和・平成30年のあゆみ」をもとに「吉田の三傑」について紹介いたします。

 

清家 吉次郎 (せいけ きちじろう)

慶応2年~昭和9年(1866~1934)政治家。

宇和郡喜佐方村河内(現宇和島市吉田町河内)に生まれた。小学校訓導、校長を経て、愛媛県議会議員(うち3回議長職を務める)、吉田町長を務める。実業家村井保固や山下亀三郎の援助を受け、吉田病院、吉田中学(現愛媛県立吉田高等学校)の創設、吉田港の改修、複式農業の奨励等、当時の他町村に見られない広い視野を持った先進的な町経営を実行、教育、衛生医療、交通、勧業等、吉田町の発展に力を注いだ。町長在職中、昭和5年と7年の2回衆議院議員に当選。7年、軍部のクーデター未遂事件である5・15事件直後の臨時議会で荒木貞夫陸相に対して論戦を挑み一躍有名となる。9年1月、病をおして国会の開院式に臨んだが体調の悪化により郷里に帰り、帰郷まもなく息を引き取った。無逸と号し、短歌、俳句を詠み、酒と謡と菊をこよなく愛したという。

 

 

村井 保固 (むらい やすたか)

嘉永7年~昭和11年(1854~1936)実業家・社会事業家。

宇和郡吉田町(現宇和島市吉田町御舟手)で吉田藩士林虎一の次男として生まれた。明治2年、村井家の養子となり、3年、保固と改名した10年、慶応義塾に入り、福沢諭吉を生涯の師とした。福沢の斡旋により貿易商社森村組に入社して渡米、以後太平洋を横断する事90回に及んだ。19年、アメリカ人キャロラインと結婚、37年1月、大倉孫兵衛らと森村組を基幹とした日本陶器会社を創立。ニューヨーク支店長として純白硬質磁器の輸出で実績をあげた。大正6年洗礼を受け、正式にクリスチャンとなる。11年に私財50万円を投じて財団法人村井保固実業奨励会を組織し育英慈善事業を開始。15年、吉田町の村井邸跡に幼稚園を設け、吉田病院設立にも資金援助を行っている。昭和10年、病床にありながら20万円の資金をもとに財団法人村井保固愛郷会をつくり、郷土の育英・社会事業に充てた。11年2月没。墓所は宇和島市吉田町の海蔵寺とニューヨークブロンクス区のウッドローン墓地にある。

 

 

山下 亀三郎 (やました かめさぶろう)

慶応3年~昭和19年(1867~1944)実業家。

宇和郡河内村(現宇和島市吉田町河内)の庄屋の四男として生まれた。明治15年、15歳で上京、明治法律学校に学び、31年、石炭販売業を始めた。35年、汽船喜佐方丸を購入し海運業を興す。日露戦争で巨万の富を得るが、株式の暴落ですべてを失い、東京に出て再起をはかった。44年、山下汽船会社を創立。第1次世界大戦の好景気によって事業を大きく飛躍させ、中国、北米、南米、オーストラリア、ヨーロッパ、東南アジアに支店を持ち、代理店の数は国内外260余か所を数えたという。昭和15年の最盛期には持船60隻を運航し、日本郵船・大阪商船に次ぐ大手の地位を確保、第2次世界大戦中は、東条・小磯内閣の参議として政界・軍部にも影響力をもった。私財を投じて教育の発展や公共事業にも尽くし、第一・第二山下実科高等女学校(現愛媛県立吉田高等学校、愛媛県立宇和高等学校三瓶分校)や、財団法人山水育英会 (敗戦により解散、現財団法人桐朋学園)の創設をはじめ、小学校、図書館、集会所や橋の建設、喜佐方トンネル掘削等に尽くした。19年12月没。宇和島市吉田町にある桜橋の北側に、吉田茂首相の題字による「山下亀三郎翁像」が建てられている。

 


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