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市指定 六斎念仏

印刷用ページを表示する 記事ID:0002313 更新日:2015年7月1日更新

市指定無形民俗文化財

六斎念仏六斎念仏

  • 所在地 津島町上槙
  • 所有者 六斎鉦保存会
  • 指定日 昭和四六年一月二九日

 六斎念仏は踊り念仏の一種である。六斎とは六つの斎日の意で月のうち八、一四、一五、二三、二九、三〇の六日を六斎日といい、古代の南方仏教では布薩を行う日であった。はじめはその六斎日に死霊・怨霊の鎮魂を目的とし、鉦を打ち経文に節をつけて唱え踊ったが、やがて太鼓などが加わるようになった。京都近辺を中心に空也上人(延喜三〔九〇三〕~天禄三〔九七二〕)を始祖として発生したと伝えられている。

 津島町上槙自治会に伝承されている六斎念仏は古くは盂蘭盆の施餓鬼供養として行われたものであるが、現在は八月五日と八月三一日に行われている。太鼓(一)・鉦(五)の六人の奏者は紺の半纏に細い帯をしめ、白の六分の下穿きという揃いの衣裳で半円形に並び、太鼓奏者が楽頭として音頭をとる。太鼓と鉦をうち鳴らしつつ「ナミアミダブツ(南無阿弥陀仏)・ナミアミダブツ」と唱え、死者の霊を弔い怨霊の魂鎮めを願うのである。

 唱える念仏は単調ではあるが鉦の四八韻の音律はそれぞれ異なり、序・破・急と打ち分けられる緩急によって鉦の音の余韻が幽玄な響きとなり、参列している地区の人々の心に深く沁みこみ、自然に世の無常を味わうことになる。八月五日の場合はこのように先祖の冥福を祈る地区の参列者も多いが、八月三一日は太鼓・鉦の奏者六人のみで行われる。上槙の六斎鉦念仏がいつから始まったかは不明だが、江戸時代中期の銘がある鉦があるので、それ以後だと思われる。

 因みに『空也上人絵詞伝・下』には「毎月斎日ごとに太鼓・鉦たたき念仏唱へ衆生を勧め給ひて、往生する人ある時は太鼓・鉦をたたきて念仏を申し、有縁無縁の弔ひをなし給ふなり。是れに依りて俗呼びて六斎念仏といひ伝へたり」とある。また踊り念仏の系統のいわゆる念仏講が南予地方においても山村・海岸を問わず多く存在していたのは時宗の開祖一遍上人(延応元〔一二三九〕~正応二〔一二八九〕)の生地が伊予・松山であることの影響であると思われる。

 津島町の海岸の集落でも念仏講はかなりあるが、いずれも鉦を打つ人は一人で、他の人は「南無阿弥陀仏」と唱えるだけである。上槙自治会のように太鼓があり鉦が五人というのは珍しい。

(注)布薩=月に六回の六斎日に在家信者が寺院に集まって八斎戒を守り、説教を聞き僧を供養する法会をいう。


文化的景観
埋蔵文化財