ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 新宇和島の自然と文化 > 市指定 十六善神由緒書

本文

市指定 十六善神由緒書

印刷用ページを表示する 記事ID:0002291 更新日:2015年7月1日更新

市指定有形文化財(典籍)

十六善神由緒書十六善神由緒書 一幅

  • 所在地 津島町高田
  • 所有者 金龍寺
  • 指定日 昭和四五年九月二四日

 金龍寺所蔵の十六善神由緒書一幅は、長さ一一八cm、幅三二cm、およそ七〇〇字、現松野町の恵日山照源寺一八代住職慶快の筆になる。

 由緒書の内容を簡略に述べる。三宝寺(現金龍寺)は曇叟和尚の開山にて由緒深い巨刹で天が森城主越智氏の祭祀の道場である。長曽我部軍の侵攻による四国大乱で天正八(一五八〇)年一〇月二七日越智通顕・弟文淑西堂は最期を遂げ、民は戦伐に苦しんでいたが、天正一三(一五八五)年小早川隆景は八万騎を擁し伊予国を領した。

 宝暦一三(一七六三)年以来三宝寺の圭首座は堂宇再建を志し、自ら土木の作務に励み安永五(一七七六)年五月一一日梵宇落成。しかも同一〇月二七日は文淑西堂・三宝寺殿(通顕)・天澤院殿(妙栄大姉・通顕の妹)の二〇〇年遠諱に当り、旧民の子孫同志浄財を棄捨、二百余名の僧侶を集め二夕三日の大仏事を修した。

 この法筵に列した筆者(慶快)は畫背に「奉寄進 十六善神畫像一幅 覚雲禅寺 施主 前藝州太守月秀覚雲居士 花山妙栄大姉 于時天正十年壬午六月如意珠日敬白」と記した紙が貼付されている十六善神畫像を密かに保持していた。今当山に来て位牌と畫背の法号が符号したことを知った。この事を圭首座に告ぐるに「吾山は曽て兵火により灰燼に帰し創建以来の古物無く、あるのは、通顕及び臣下書写の般若経二〇〇巻のみなればこの吾山の法器としてこの畫軸を頂きたい」と言った。予(慶快)日く「この畫像の三法寺帰山は惜しまねど、照源寺の年頭の般若転読法会に欠かせないものである。若別に新畫を見付けよ」と。首座は「木瓜で瓊瑤を得る者は命に従う」と応じた。そこで頌として七言絶句と由緒書と併せて贈る。

二百年回合祭辰 伽藍復構薦江頻

西堂威用王臣徳 儼爾降臨十六神

安永五年丙申十月二八日
 現住照源慶快叟 印 印

 現在十六善神畫像は金龍寺にあるが、何時照源寺から帰山したか不明である。また由緒書で通顕の戦死を慶快は天正八年としているが、天正一〇年の八幡神社棟札には「願主通顕」とある。また高野山塔頭上蔵院の「河野氏御過去帳」の「天正七年、予州津島入道が前藝州大守覚雲居士の位牌を建立した」という記述、宇和旧記の記事等から「由緒書は通顕に関する江戸時代の伝承を記したもの」(県歴博・山内治朋氏)で通繁と通顕を混同していると思われる。

 因みに、照源寺に遺されている「行一善則捨一悪」の条幅の筆跡も落款も、由緒書のものと一致している。慶快は安永四(一七七五)年照源寺を再建「上梁銘」を識し安永六年には河後森城主渡辺教忠の墓誌銘も書いている。


文化的景観
埋蔵文化財