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市指定有形文化財(典籍)
三嶋神社の豫章記
豫章記は、伊予国の中世における最大の豪族河野氏の歴史を描いた書籍であり、平安時代の末期から、天正一五(一五八七)年に滅亡するまでの事績をのべたものである。
河野氏は、風早郡(現松山市)河野郷を本拠とし、のち道後湯築城(現松山市)に移った。源平合戦に際して、河野道清・通信父子は源氏に味方して挙兵し、幕府成立後通信は、鎌倉御家人の地位を得た。
しかし、通信は承久の乱(一二二一)では京方に味方して敗れ、奥州平泉へ流された。
通信の子通久は、一人幕府方に味方して河野氏の命脈を保ち、久米郡石井郷(現松山市)に所領を確保した。
通久の孫通有は、弘安の役(一二八一)に出陣してめざましい勲功をあげた。通有の子通朝、その孫通尭は、征西将軍懐(なが)良親王に帰伏して勢力を得た。
室町時代には、通義・通之・通久が相ついで守護の地位につき、河野氏の領国支配は安定した。
しかし、戦国時代には、領国支配の強化や家臣団の統制に失敗して、従来の守護大名から強力な戦国大名に脱皮することができず、毛利・大友・長曽我部氏に侵略され、天正一三(一五八五)年豊臣秀吉の四国攻略によって、同一五年、第五七代通直の死によって伊予の豪族河野氏は滅亡した。
このように河野氏の故事来歴が記述されている。
三嶋神社の豫章記は、さらに宇和島領及び吉田領主伊達家の事績並びに、三嶋神社の神主名が七八代より九〇代まで明記されていて、郷土史料の上からも貴重である。
なお、奥書きに次のように見えている。
鬼神者陰陽之屈伸而 鬼神は陰陽の屈伸にして、
人者陰陽之和化也 人は陰陽の和の化なり。
神位於上人應於其気 神は上に位し、人は其の気に応ず。
此即道也謹書 此れ即ち道也謹書す
信継
ときに 享保二丁酉三月吉辰
信継とは、吉田領佐藤長佐衛門信継のことで、「藤蔓延年譜」には、「御部屋住、四人分七石」と見えている。信継が、享保二(一七一七)年に写し書きしたこの豫章記が、今日まで宮野下三嶋神社に伝承されたことは、河野氏と三嶋神社とのかかわりを知る上でも、貴重な歴史資料と評価されている。