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市指定 清良記

印刷用ページを表示する 記事ID:0002287 更新日:2015年7月1日更新

市指定有形文化財(典籍)

清良記の画像1清良記 全三〇巻

  • 所在地 三間町宮野下(三間支所)
  • 所有者 宇和島市
  • 指定日 昭和三七年一一月三日

 清良記は、三間大森城主土居清良とその一族が、豊後大友氏、土佐一条氏および長曽我部氏と戦いを交えた永禄、元亀、天正(一五五八~一五九二)の頃の軍記物である。全三〇巻にわたる長編で、第一巻の最初に「総目録」が付いている。

 清良記には、「緒方本」・「高串本」など多種類に及んでいるが、宇和島市指定の清良記というのは、昭和六三年二月一〇日付けで土居享市氏より三間町に寄付された「三間土居新本」である。

 これは、全三〇巻を一五巻にまとめたものである。縦二七cm、横一九cmの和紙に墨書、右和綴じ。奥書によると、土居家二二代与兵衛森良が、天明六(一七八六)年に吉田家中の書家に書写させたものであるという。

 清良記全三〇巻の大要は、一巻から五巻は、石城の戦いに敗れ、土佐中村で落人として身を律していく土居清良の揺籃期。六巻から一六巻は、土佐一条氏及び豊後大友氏を相手に、西園寺麾下の武将として土居清良の成長期。一七巻から二八巻は、西園寺麾下の確執、不和の調整を図りながら、執拗な長曽我部軍の猛攻に備え、戦略・知略を駆使し、戦功を挙げながら敵陣に立ち向かう知将期の土居清良。二九巻と最後の三〇巻は、小早川隆景の四国征伐後、「そむくべき代をし我からそむき来てそむかれけりな時や来ぬらん」と詠みて、隠宿に身をひそめ、新政権への協調期。寛永六(一六二九)年三月二四日土居清良逝く。享年八四歳、もって清良記も了する。

 清良記は、土居氏一族を中心とした軍記物であることから誇張・誇示もあり、そのまま史実とは考えられない記述もある。しかし、この清良記をおいて他に中世末期の南予地方の小支配者の動向を記した文献のないところから、中傷されながらも、いろんな面で活用されている。愛媛県編年史には、清良記からの引用が五〇余点に及んでいることからみても、貴重な史料でもあることがうなづける。

清良記の画像2 さらに特色としては、第七巻の上下には、松浦宗案の「親民鑑月集」があり、農事にかかわる詳細な記述がなされている。これは、我が国における最古の農書ともいわれている。

 清良記の著者は、宮野下三嶋神社の神主土居水也(真吉水也、土居家一門の人)といわれ、その成立は承応三(一六五四)年と三間町誌に見えている。


文化的景観
埋蔵文化財