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市指定 広口壺(須恵器)

印刷用ページを表示する 記事ID:0002282 更新日:2019年3月12日更新

市指定有形文化財(工芸品)

広口壺(須恵器)広口壺(須恵器) 一口

  • 所在地 宇和島城整備事務所
  • 所有者 宇和島市
  • 指定日 昭和四四年三月一日

 昭和二七年に高田、久保津の水田で、瓦用の粘土を採掘中に発見したものである。また金の輪も同時に発掘されたそうだが、この方は行方不明になった。

 広口壺は口径二一cm、底径一二・四cm、高さ二一・六cmである。底部には高さ〇・六cmほどの低い脚台がつき、なだらかにカーブを描き肩部に至る。肩部は「く」の字に張り出したのち、頚部に向けてすぼまり、反転して円筒状に立ち上がる。そのまま口縁に向けて外反し、口縁端部は〇・六cmほど受口状に立ち上がる。採集時の状況から粘土層中に埋蔵されていたと思われ、器面の荒れが著しい。器形から八世紀代(奈良時代頃)と判断できる。

 また、この壺には坏の蓋の破片も一緒に保管されている。壺と一緒に発掘されたものだと思われるが、壺の蓋ではない。三分の一ほどが残存しており、口径の復元値一三・八cm、高さ二・四cm。焼けひずみが著しく、本来の器形に復元することは困難であるが、扁平な器形と想定できる。宝珠つまみは退化しているものの扁平になっておらず、八世紀前半までの年代が想定される。

 これらの須恵器が造られたころの宇和郡は、『倭名類聚鈔』によると石城・石野・三間・立間の四郷が置かれていた。それぞれの所在地は石城郷・石野郷が現西予市宇和町、三間郷が三間町、立間郷が吉田町立間に比定されているため、宇和島以南の状況は不明である。また、須恵器の出土についても宇和盆地、三間盆地以南では本資料のほかにはなく、南予の古代を考える上で重要な資料と言えよう。

 また、昭和四七年には須恵器出土地点の南側で瓦土採掘中に弥生土器等が出土している。


文化的景観
埋蔵文化財