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市指定有形文化財(彫刻)
木造阿弥陀如来立像 一躯
光圓寺は、宇和旧記に「曽根浦、古は道場と言う」と見えており、津島町誌では「元禄一一(一六九八)年、正念大法師によって開山された」と記されている。
本尊阿弥陀如来像は、その後元文年間(一七三六~四〇)の火災に遭遇したが難を逃れ、天明五(一七八五)年、本堂の建立と共に安置され、浦人の尊崇をあつめて現在に至っている。
本尊は単独で祀られ、身の丈五五cmの立像で、鎌倉期の作である。康雲という仏師の作であるという書物(光圓寺所蔵)がある。
鎌倉時代の有名な仏師運慶は雲慶とも書くことがあったようで、この康雲も康運と書いたかも知れない。もし、この康運が本当ならば、運慶の子の湛慶と同列に並ぶ仏師である。もちろん慶派の仏師の仲間ということになる。
慶派は、平安末期から鎌倉初期に康慶・運慶・快慶らが出現して栄え、七条仏所を形成した程の名門である。
さもあろう。この本尊の容姿の端麗さはえも言われない。胸部や腹部の程良い肉厚感、柔らかいなで肩を通した衲衣の袂が、両足元まですうっとのびてきている。そして、台座の蓮肉まで達した裳裾と渾然一体となっている。
加えて、衣文のあり様が整然として、一条一条が流れ出ているようである。また、彫りが緻密で美しい。特に右袖袂の内刳りの技は、巧妙である。
玉眼は、この仏像の誕生が鎌倉期であることを物語っている。二重あご、張りのある長面の顔にこの期の緊張感を感じる。
この阿弥陀如来像の印相は、上品下生の来迎印である。
本尊の立つ蓮華座は、段を重ねて四〇cm。背負う舟形光背は、高さ七三cm。この光背には、放射線光を放つ光心がセットされていて、にぎにぎしい。
宮殿は、桁行一間、二手先の斗栱、二軒繁棰、軒唐破風をもつ向拝、建築装飾の限りを尽くしたような来迎柱や向拝柱。金の草花を浮き彫りにした脇障子を建て込み、目の覚めるような華麗な宮殿である。