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市指定有形文化財(彫刻)
木造薬師三尊像のうち中尊坐像 一躯
保福寺は、当初河野通賢が高森城の鬼門として、字寺ケ谷に中河野山法福寺を建て、秘仏薬師如来坐像を本尊として安置した。その後現在地に移し、東光山保福寺と改めた。
本尊薬師如来像は、日光・月光の両脇侍と十二神将を従え、完全な一組として厨子に納まっていて、六〇年毎の御開帳という秘仏である。従って、以下は写真による所見である。
中尊の薬師如来坐像は、像高一尺一寸余(吉田古記)、蓮華座に結跏趺坐し、偏袒右肩の衲衣をまとい、左手に薬壺を持った木造で、金泥仕上げ。挙身光の光背を背負っている。
造像の時期を、愛媛県文化財委員正岡氏は室町末期の作、京都市立美術大学佐和隆研教授は、江戸初期の作と鑑定されている。
中尊の特徴は、頭部が大きく、肉髻が低いこと。薬壺を持った左手が体の中心下腹部まで伸び、しかも薬壺をかかえこむように指先を内側に曲げていること。結跏趺坐した膝があまり横に広がらないで、丸まって高いこと。衲衣の末端に「切金文様」状のものが見えることである。衣文の流れや彫り具合は単調であるが、この切金文様の手法や仏像全体の容姿から見て、都会の仏師の手になるものと思われる。
この両脇侍の特徴は、奈良薬師寺の金銅薬師三尊像のように、中尊は坐像、両脇侍は立像であること。
両脇侍も金泥仕上げ、宝冠を戴き、温顔で蓮華座に立ち、挙身光を背負っている。この厨子に祀られたのは、中尊像より後のことである。
十二神将は、十二薬叉大将ともいい薬師如来の眷属である。甲冑をつけた忿怒像であるが、表情がおもしろい。この十二神将は、中尊の薬師如来像と同時期の作であろう。