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市指定有形文化財(彫刻)
木造薬師如来坐像 一躯
妙覚寺は、現在は宝樹(受)山と号し、臨済宗妙心寺派で一千有余年の古刹である。元は天台宗であったという。多年無住職であったため古書旧記が散逸し、その事跡は詳らかでない。今上尊牌の裏面に「延暦元年十月五日」(七八二)と刻んであるところから、開山の日かとも考えられる。
後に、京都大徳寺の世祖一休禅師が錫を留めること三年、同師自作の木像が現存しているのでこれを中興の祖としている。
慶長一七(一六一二)年頃は、泉ヶ森の「堂のなる」に堂宇があったが、いつ頃ここに移されたか分からない。吉田古記が著された延宝九(一六八一)年の時点では、既に現在地に移されていた。
像高五二cmの本尊は、吉祥坐で幅広い脚部の上に、肉づきがよく丸味を帯びた豊満な胴体をゆったりとのせ、小振りではあるが堂々としている。首元の左右から、なだらかに弧を描く両肩の線の流れが、豊かな肉の盛り上がりを造りだしている。ふっくらした、やさしい顔が仏像全体をまとめ、均整のとれた美しい容姿である。
偏袒右肩の流れるような納衣、左肩から流れる衣文は、松葉式・うっすらと翻波式衣文を見せている。金泥で仕上げ、その華麗さにおいては市内屈指の仏像である。
作は、唐の帰化人、河内国春日部邑に住んだので通称春日と呼ばれている仏師稽文会・稽首勳の作と伝えられている。
昭和三七年、京都市立美術大学佐和隆研教授は、「藤原初期の作」と鑑定された。
文化五(一八〇八)年五月二五日付の上棟文に「物換わり星移りて荘厳幾ほとんど壊る 清良の遠裔土居某等勇義の輩と倶に之を厳飾し 貞享戊辰(一六八八)夏四月其の功を終わる」と見えている。これは、この本尊の修復を伝えるものであろう。
光背は、新舟形光背で先端が異様にとがっていて、身光の周りは渦文で飾られている。台座は、蓮華座。下敷茄子は六角形で正面には梅にうぐいすの彫りものがなされ精緻、豪華である。両者とも金泥で統一され、江戸期のものと思われる。
なお、この本尊は秘仏とされている。
(注)今上尊牌=聖武天皇の尊牌