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市指定 木造薬師三尊像のうち中尊坐像

印刷用ページを表示する 記事ID:0002250 更新日:2015年7月1日更新

市指定有形文化財(彫刻)

木造薬師三尊像のうち中尊坐像木造薬師三尊像のうち中尊坐像 一躯

  • 所在地 吉田町医王寺下
  • 所有者 医王寺
  • 指定日 昭和五四年三月二六日

 医王寺の草創期は不詳であるが、『吉田古記』に「医王寺は、立間大光寺十二坊の一つで、天台宗である」とみえている。

 また、寺伝によれば、戦国争乱の世には堂宇は荒廃し、各宗の僧侶が時に応じて住持するなど、宝灯明滅、宝財・文献の類が散逸したという。

 応永二二(一四一五)年西園寺氏の配下清原勝円の帰依を得て浄財を募り、上日和尚が中心となり堂塔の再建をみた。

 下って万治二(一六五九)年、吉田藩陣屋が完成したが、医王寺が吉田藩陣屋の艮(北東)にあたるので、医王寺を鬼門除けの祈祷所とした。

 現在の本堂は、天明四(一七八四)年五代藩主村賢によって再建されたものである。その棟札によれば、「不動明王護摩堂、因薬師催合堂、一宇建立。然尽善尽美、国内之余院相勝事十倍也」とみえている。

 このような盛衰のなかを護持されてきた本尊薬師如来坐像は、「伝教大師一刀三礼の作と伝えられる。いわゆる大師親作による日本七仏中の一躰、比叡山根本中堂の薬師仏と同根一株で造られたもの」(『吉田町誌』)といわれる。

 昭和四九年三月、神戸大学教授の毛利久博士により、像容・衣文ともに藤原時代(平安後期九〇〇~一一八〇)の特色をよく示しているとの評価を受けている。

 中尊の薬師如来坐像は、等身坐像形で像高七四cm、螺髪・白毫から薬壺にいたるまで、すべて一木より造り出している。仏眼は彫眼である。

 やや怒り肩で胸を張り、肉感のある堂々とした体躯。衲衣を偏袒右肩に巻き、背中の衲衣を引き上げ右肩に掛けている。大きく広げた首元の衲衣の襟元が高く盛り上がっている。

 左手の与願印には粗削りの薬壺が造り出され、左手下腕のみが接木となっている。

 坐り方は、半跏の吉祥坐であるが、膝幅が広く安定し、ゆったりとしている。

 衲衣の彫りは浅く、並行的でおおらかである。

 彩色は、胡粉の下地の上に黄系色を塗って金色相を表現したものであろうか。少し残った口紅が古仏を引き締めている。

 簡単な蓮華の台座が傷み、中尊が少し傾きながら輪光を背負っている。

 日光・月光両脇侍及び十二神将は、天正一一(一五八三)年、薩州紫尾山住覚尊法印の作である。

 桧材白木造りの唐様須弥壇。その上に安置されている桁行一間入母屋造、平入、三み手先斗拱、木瓦葺の本格的な唐様厨子。共に応永二二年の作で、この界隈では最も古い貴重な建造物である。


文化的景観
埋蔵文化財