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市指定有形文化財(彫刻)
神像 一七躯
法花津与村井の三島神社について、『玉津郷土誌稿』(明治末期)はつぎのようにのべている。
「由緒 正親町天皇の天正年間(一五七三~一五九一)、此所の領主清家播磨守清原範延、越智郡大山祗神を勧請して氏神と尊敬し当時の祈願所に候由旧記に御座候」
三島神社が法華津氏の勧請によることは、諸記録のしるすところであるが、同社神像の請来が法華津氏に関連を持つこともまた当然とされるところである。
三島神社の神像のうち、立像一六軀(内僧形神一、女神一)、左膝を立て坐るもの一軀が文化財に指定されているものである。その他、坐像二、像容の明らかでないもの数体がある。いずれもヒノキ材の一木造り、像高は立像で約五〇cm、坐像で約三七cm、一部に彩色の痕を残している。
制作年代については、文部省文化財保護専門委員会の昭和三九年五月の調査により、鎌倉末あるいは南北朝時代と推定されている。
像容の明らかなものについて言えば、素朴で地方作風を存し、姿態表情ともに興味つきない変化の妙をみせている。僧形神一と男子童形一の二躯をのぞけば、他はすべて巾子冠を頂き袍衣もしくは狩衣姿の男神像で、面貌には老若の差がありながらいずれも眼球の突出したつくりは、大山祗神社の神像群に通ずるものがある。同じ立ち姿の神像のなかでも、両手の構えに変化があり、頭を横に向けるもの、片肌ぬぎのものなどさまざまであるが、とくに、両眼を見開き、鼻翼を張り、口をへの字に結んだ像は、三島系神像の顕著な特色をそのままに表現するものである。